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不思議ちゃん、という言葉はマユを表現しているようで、でも少し違う。
マユは正直に生きてきた、とても良い子だ――そう、この言葉の方がマユには似合っている。『良い子』。
二十四歳にもなって、『良い子』という表現がフィットしてしまう。そこを冷静に考えると、なんとなく寒気がしなくもない。
スマホに着信音がして、マユがなにかメッセージを送って来たのがわかる。
『会いたいなぁ、みっつん』
恋人か、っての。思ったままを、タップして返信。
『恋人か、っての』
『みっつんが恋人ならよかったねー』
べろべろりんのスタンプで答える。べろべろりんっていうのは、マユのお気に入りのキャラクターなので、これさえ貼っておけばマユはご機嫌のはずだ。
『かわいー!』
『ほんとにこれ好きね』
『うん。みっつんの次に好き!』
もう一回、スタンプ。マユもスタンプを返して来た。他愛ないスタンプ合戦で画面がスクロールしていく。
そろそろ終わりにしてもいいかなと思っていると、ようやく文字のメッセージが来た。
『電車とか、もう三ヶ月くらい乗ってないー』
『ウィズ・コロナ』
『こわいこわい。電車乗れないよー、でもみっつんに会いたい』
二〇二〇年、世界は先が見えない。世界なんて主語を大きくしなくてもいいか。
わたしの人生、かなり先が見えない。
『暇は暇なんだけどねー、会社なくなりそうだし』
『えっ、そうなの』
『そうなの』
『そっかー、大変だね』
知らぬまに、つぶやいていた。
「マユはいいよねー」
マユはお嬢様だ。自分が金持ちだと理解していないお嬢様ってだけで、だいたいめんどくさい。
しかも、思い込みが強い上に、自説を絶対に譲らないから、もうめんどくささしかない。彼女の発言に苛立ち、あるいは消耗して、つきあいを断った子は多い。というか、共通の知り合いで残ってる子が誰もいない。
でも、マユは気にならないそうだ。皆、悪い子だからですってさ。
『大変つってもわかんないでしょ、マユ』
『わかるよー。会社なくなると、働けないじゃない? 次のお仕事、探さないと』
なんで働かなきゃいけないのかを、たぶん、わかっていない。マユが「働かなきゃ」というのは、大人というものは働くことになっているから。やるべきことをやらないと、悪いことが起きると思っているのだ。
マユには、そういうところがある。
つまり、悪いことが起きるのは、良いことをしなかったせい。なんらかの悪いことをしたせい。自業自得。……っていう思い込みがある。
『まだ、完全になくなると決まったわけじゃないけどね』
『そうなんだ』
『でも、マユならそれもわたしのせいっていうのかな。会社が、なくなったら』
『えっなんで? みっつんは悪くないよ』
『なんか悪いことしたんでしょ、って。仕事がなくなるような』
『それは、みっつんじゃないでしょ? 会社が悪いことしてたんだよ。みっつん巻き込まれてかわいそう』
――悪いことをしたから、会社がつぶれる?
「なんなの、それ」
思わずつぶやいていた。
なんなの、それ。ほんと、なんなの。
会社が良いことをしようが悪いことをしようが関係なく、ウィルス禍は等しく降りかかってくるのだということを、マユは理解しない。そんなのは、わかっていたことだ。
でも、今のはなんか、……なんかもうダメだ。今の発言を受け入れがたいばかりか、マユのすべてを疎ましく感じる。それくらい、ダメだ。
耐えられなくなる瞬間ってあるんだな、とわたしは思った。
『ごめん、この話題、今はちょっと無理』
ぴこっ、とスタンプが押された。マユが好きなべろべろりん。立て札の前で途方に暮れている絵だ。……ううん、立て札じゃないのかな。なんだろう、これ。駅にあるやつみたい……駅名が書いてある看板? 標識? なにか、そういうの。
でも、そこに書かれている文字は読めない。中央にべろべろりんが立っているからだ。
『みっつん、大丈夫? ごめんね』
『こっちこそ。なんか違う話しようか』
『うん』
暇ではあるのだ。
わたしだって、マユのことはいえない。持て余した暇をつぶせる相手が、マユしかいないのだから。
『今のスタンプ、見たことなかったけど新作?』
『そだよー。電車シリーズ! 改札通ってるのとか、通れなかったのとか』
『通れないのもあるんだ。ウケる』
ぴこっ。改札の前で途方に暮れているべろべろりん。改札だとあらかじめ知っていなければ、理解できないかもしれないけれど。
この謎のキャラクターは、マユが通っていた幼稚園の先生が描いて売っているらしい。先生に買ってねっていわれたから――とマユは語った――かわいいでしょって。かわいいよね!
正直、わたしにはどこがいいのかわからない。マユのつきあいで、最初のセットだけは買ったし、マユを相手にするぶんには便利で助かってるとはいえ……まぁ、わからない。絵もあまりうまくはないし。
改札なんて改札には見えないし、駅名の看板も、よくそれとわかったなと自分を褒めたいくらいだし。ほんと、よくわかったなぁ、と思う。センターはべろべろりんがかぶってるからともかく、左右にもうちょっとこう、隣の駅の名前っぽいものが見えてもいいんじゃないだろうか。終点だとしても、片方には隣の駅があるわけだし、なにか書かれていないと不自然だろう。
そこまで考えて、ふと思いだした。
『きさらぎ駅……?』
『きさらぎ駅?』
よい子のマユはネットロアなど知らないようだ。
きさらぎ駅とは、匿名掲示板に書き込まれた一連の「いつも乗っている電車がなかなか停車しない」という女性の書き込みに端を発した話。怖いかっていうと……あんまり怖くはなかった。
で、なんでこれを思いだしたかっていうと。
女性はようやく電車が停まった「きさらぎ」駅で電車を降りたんだけど、その駅名表示の看板に、隣の駅の名前がない、と書き込んでいたのだ。
出発駅などの条件から、路線は遠州鉄道としか考えられない。けどもちろん、遠州鉄道に「きさらぎ」駅はない。
鬼と書いてきさらぎと読めるので、書き込んだ人物はそういう意味を持たせたかったんだろう。深い考察があるというよりは、漠然とこう、怖い印象を与えるために。
でも、わたしはそれより、隣の駅がないという特徴の方が印象に残った。
意味深な駅名より、そのちょっとした非日常の方が、知らぬまになにか越えてはいけない一線を越えたことを思わせて、怖いなと思ったのだ。
『みっつん、今、駅にいるの?』
ぼんやりしていたわたしは、マユのこのメッセージにスタンプを返した。なにも考えず。ろくに画面を見もせずに。
ぴろんと音がしてから、自分が送ったものに気づく――。
ウンウン、とうなずいているべろべろりんを眺めて、これでマユとの付き合いも終わりかな、と思った。
マユは嘘を許さない。冗談やシャレだといっても認めてくれない。
今すぐにスタンプの押し間違いだと説明すれば、たぶん大丈夫。でも、このまま電車に乗っているという勘違いを訂正しなければ、マユは怒るだろう。この程度でそれほど? というくらいの勢いで、責めたててくるだろう。
いつもなら、わたしはすぐに訂正して謝る。そうしてきたから、今までつきあいがつづいてる。
でも今夜に限って、思ってしまった――まぁ、それならそれでいいか、と。その程度の縁であるなら、切れてしまってもいいだろう。
そして、どうせなら。
――このまま嘘、つき通すかな。
荒唐無稽な話にマユがどこまでついてくるかを知りたかった。そして、騙されたと気づいたマユが、どういう反応を見せるのか、も。
マユのメッセージが、スタンプを画面の少し上に押し上げた。
『え、電車乗ってるの、怖くない?』
『もう乗ってない。駅にいる』
『それがきさらぎ駅ってとこ? 遠く?』
『そんなはずないんだけど。今日、ちょっと会社行く用事あってさ。それで帰るところだったんだ』
すらすらと、指が勝手に文字を紡ぎだす。意外とわたし、作り話をすることに抵抗がないみたいだ。はじめて知った。
『そうだったんだ』
『なんか全然電車止まらなくてさ、間違って急行に乗っちゃったのかなと思ってたくらい』
きさらぎ駅の書き込みも、そこからスタートしていた。電車が止まらない、どうしたらいいですか、と。
どこの路線だとか何時発の電車だとか。そういう質問を、相談者はだいたい無視していた。都合の悪いことには答えてないよなぁと思いながらログを読んだし、当時の掲示板の参加者のほとんども、信ぴょう性は留保することにして、せっかくのネタをやさしく育ててやろうぜくらいの雰囲気で見守っていたようだ。生のログを読むと、そういう風に言及している書き込みもあるのだ。野暮なことはするなよ、みたいな感じ。
もちろん、安直に信じる者もいただろう。
『どこなんだろう、ここ。……暗くてよくわからないんだけど。でも、とにかくようやく駅に停まったから、降りてみたんだ』
『まだ電車いるの?』
『ううん、もう行っちゃった。駅の名前は書いてあったからわかったけど……なんか変』
『きさらぎ駅って、聞いたことないねぇ。マユ、寝過ごしちゃったの?』
『うーん、そんなはずはないけどな』
けっこう有名なネット伝説だから、「きさらぎ駅」で検索したら一発だ。マユが自分で気づいてくれたら、種明かしをしなくて済むのになぁ、と思う。
でも、マユは検索しない。賭けてもいい。
『どこなんだろ』
マユはお嬢様なので、電車にはあまり乗らない。路線図の見かただって、理解しているかどうか。
つまり、マユの方から隣の駅名はなにかと確認してくれるのは望めないだろう。掲示板に書かれていたような、車掌や運転手を探せとか、出発時刻がわかればダイヤグラムを調べられるとか。警察に電話しろなんていうのも含めて、現実的な助言が出てくる気がしない。
マユが訊きそうなことってなんだろうなぁ……。
『隣の駅名も書いてないし……なんかね、暗い。駅の照明も薄暗いし……まわりにも建物とかなさそう。すごく真っ暗。ずいぶん停まらなかったから、どこかの山の中まで運ばれちゃったかな……』
『なにそれ、こっわい。みっつん、いつも通勤に使ってる電車なんだよね?』
『そだよ。でも知らない場所……乗り越し料金払わないといけないかな』
これもマユには響かないだろうなぁ、とわたしは思う。
まぁ、そこはどうでもいい。せっかくだから、ちょっとは怖がらせたい。わたしの作り話を信じてマユが怖がったところで、ぜーんぶ嘘! ってやりたい。
『誰もいないの?』
『うん』
マユだから、駅員さんを探せ、とはいわない。
でも、これは少しだけマユを怖がらせたらしい。
『ええー、やだ。気味が悪いね。なんか、おかしくない?』
『おかしい……かな。たぶん』
『それさ、なんか変だよ。おかしい場所だよ』
おかしい場所ってなんだ。まぁ、たしかにおかしな説明をしてるけど。
マユは、わたしの話を信じたようだった。当然だ。マユだもの。
『どうしたらいいと思う?』
『誰かいないの?』
『誰もいないっぽい……』
――きさらぎ駅の話って、このあと、どうなるんだっけ。
知ってはいても、仔細に覚えているわけではないから、ちょっと調べたくなった。
『充電心配になってきたから、即レスやめるね。誰かいないか、見てくるよ』
『わかった。ねぇみっつん、そこ、たぶん危ないよ。気をつけてね』
マユは、アセアセしているスタンプを押してきた。緊張感がない。まだ、ちゃんと怖がってくれているわけではなさそうだ。