六杯目 ウィンナーコーヒー
「こんにちはー」
私が喫茶店アクアのドアを開けると、私がいつも座ってる場所の隣に制服姿の女の子が一人。ドアベルの音に振り向き、ニコッと笑った。あの時と同じ笑顔。
「文香さん、ナツミだよ。お久しぶりです!」
「ナツミちゃん、久しぶりだね。中間終わった後、ユウキ君とカズマ君には会ったんだけれど、ナツミちゃんは寝込んでるって。中間どうだった?」
その言葉に空気がちょっと重くなった。聞かない方が良かったのかもしれない。二年の二学期の中間って意外と大事だし。別に巻き返せないこともないけれど、やっぱり気にしがちな物だと思うし。
「別にね、国語も良かったし数学も悪くなかったし、ほかもまあまあ平気だったの。でも、世界史がやっぱりダメで後一点で首の皮繋がって、成績覚悟しとけよって言われた…」
かなりギリッギリの点数だったんだね。そんな心配しなくて大丈夫だと思うけれどな。赤点じゃなかったら、3はもらえるはずだ。それに三年からは大体どこも世界史と日本史は選択できるし。
「でも、フランス革命以降ゴタゴタしてるし、古代文明の起こりとかは割と面白いと思うんだけれど、特に王位継承権とか」
日本は室町とか江戸時代ぐらいには長男が継ぐと決まってたみたいだけれど、オスマントルコなんかは何番目の子供でも、正妻の子でも、側室の子でも王位継承権は平等に持つ。つまり子供は男の子であれば、だれでも王位継承権第一位だったらしい。どこもお家騒動は似たり寄ったりだろうけれど。
「私は徳川家の将軍代々順番に言えるし、なんなら天皇だっていえるけれど、外国の事は全く覚えられないの。このまんまじゃ落第しちゃうよー」
ナツミちゃんの大きな瞳が涙で潤む。大丈夫とも気軽に言えないし、私べつに苦手じゃなかったから励ます言葉すらでないけど。たぶん大丈夫、私も数学は落第寸前だったから。
「まあ、これでも飲んで落ち着け」
マスターが私とナツミちゃんの前にカップを置く。初めて飲むもの。コーヒーの上にぽったりと浮かぶ純白の生クリーム。少し溶かしこんで飲むと、まろやかな味がした。コーヒーが苦手な人でも飲みやすいかもしれない。
「そういえば、ユウキ君とカズマ君は?」
「今日はね、ユウキは部活でカズマ君は…最近あんまり一緒じゃなくて。今、お家がちょっとバタバタしてるみたいですぐ帰っちゃうから…」
ナツミちゃんは少し寂しそうに目を伏せた。ナツミちゃんも惜しんでいるんだろうか、今一緒にいれる時間を。私たちが惜しむ以上に三人とも惜しんでいる。大学も志望校が違えばコースも違うだろうし、カリキュラムも異なってくる。まだ一年以上あるという人もいるけれど、想ってる以上に最後の一年は早く過ぎる。多分それもナツミちゃんは良く知っている。
「文香さんは、カズマ君のことどこまで知ってるの?」
「別に、何も。ただ、ちょっと複雑な家庭環境って話は聞いたけど、どう複雑かまでは知らないよ」
「今からするのは、ここだけのお話にして誰にも言わないで」
ナツミちゃんの声が真剣なものに変わる。表情に切実なものを感じ、私は一つ頷いた。それにホッとしたような顔の後ナツミちゃんはちょっとづつ話し始めた。
カズマ君とユウキ君とナツミは同じ幼稚園で小さい時から一緒で、ボール遊びもお昼寝も、お絵かきも何をするのも一緒。周りの大人たちは
『まるで兄妹みたいに仲良しね』
って微笑ましく見てくれてたんだけれど、ナツミのお母さんは嫌がってた。あんまり、男の子と遊んじゃダメって。特にカズマ君と一緒にいちゃダメって。
カズマ君は小さい頃大人しくて、人見知りすっごいして、あんまりお友達もいなかったんだよ。カズマ君ね、母子家庭なの。カズマ君のお母さんは、お昼は工場で働いて、夜はホステスとして働いてて。私も詳しくは知らないけれど、お父さんはカズマ君が生まれる前にはいなかったし、愛人の子じゃないかとか、父親が誰か分からないんじゃないかって言われてたんだって。
なんであろうとカズマ君はカズマ君だし、親がどうとかなんて関係ないと思うんだけど。カズマ君のお母さんが夜のお仕事してるっていうのも気に入らないみたいで。私は、昼も夜も働きづめで、でも授業参観には来てくれてたカズマ君のお母さんは素敵だと思う。どんな理由であれ、子供を女手一つで育てるのは大変だと思う。でも、ちゃんとしたお母さんだったよ。私達から見たらね。でも朝早くから夜遅くまで働いてるからほったらかしみたいな言われ方されてた。
カズマ君は何も言い返さないで、いつもきゅっと唇噛んでた。血がにじむ位拳を握りしめて。
「変な話でしょ。誰も悪いことしてないのに、それっぽっち取るに足らない理由でナツミのお母さん、カズマ君にうちの子に近づかないでって言ったんだよ。カズマ君のお母さん結婚するって聞いてから急にそんな事言うようになるなんて…。ちゃんちゃらおかしいでしょ?」
ナツミちゃんは寂しそうに笑う。天真爛漫な笑顔とは違う、見てるだけで切なくなるような笑顔だった。
「そうだね…」
私はカズマ君がちょっと羨ましくなった。産んだ経緯がどうであれ、カズマ君のお母さんはちゃんとカズマ君のことを思っている。本気で心配して寄り添ってくれる人がいる。それがどんなに恵まれているか。確かに私には想像できない位辛い思いも、寂しい思い数えきれないくらいしたかもしれない。それでも、ちょっと羨ましかった。
「ナツミ、カズマを見ててやれよ。アイツため込みやすいだろ、危なっかしい」
マスターがポツリとそんなことを言う。ナツミちゃんはそれに力強くうなづいた。それと同時にポロリと涙がこぼれ落ちる。カーディガンの袖でぐいっと目元をぬぐい、困ったように笑う。
「本当はね、誰かに聞いてほしかったんだと思う。聞いてくれてありがとう、文香さん。春海さんもありがとう」
「涙が止まるまでいれば?もう一杯ウィンナーコーヒーおごるよ」
「ううん、そろそろ帰らないと怒られちゃう。これは、ちょっと漫画読んで泣いたって言っておくよ」
期末が近くなったらまた来るからと言って、代金をテーブルに置いてナツミちゃんは手を振って帰って行った。
「前も思ったけれど、ナツミちゃんはいい子だね」
「俺もそう思う。女の子は男よりはるかにしっかりしてる。ナツミは温かくて二人にとっては太陽みたいな存在だよ」
太陽か。二人にとってはひだまりみたいな女の子かもしれない。そういえば、ナツミちゃんからはいつでもおひさまの匂いがする。良く晴れた日に干したお布団みたいな、ホッとする香り。
「大体、カズマは自分一人我慢すれば何とかなると思ってるから。アイツが借りられる手なんて本当に沢山あるのに」
「僕が何だって?」
カランッとドアベルが鳴り、カズマ君が不機嫌そうに立っていた。いつ来たのか。私の横のカウンター席を引いて、座ると同時に
「春海さん、オリジナルブレンド」
と表情に違わぬ不機嫌そうな声で注文する。それにはいはいと呆れ気味に返事して、マスターはコーヒーの準備をし始める。
「ナツが来てたんだろ」
「まあ、さっきまでは」
「心臓破りの坂駆け下りていくの見た。ま、結構な勢いで走ってたから僕の事なんて見えちゃいなかったろうけど」
ふぅっとため息をついて少し笑う。カズマ君はまったくもっていつも通りという感じだ。ここに来てる時しか知らないけど。前、来ていた時と同じ態度という意味では、まったくの通常運転。クールそうでちょっと毒舌なところ。
「で、僕が何だって?」
「怒ってんの?」
「質問してるのはこっち」
切り返しが早い。意外と怒ってるのかもしれない。いや、まあ、自分の知らないところで、自分の話されていい気はしないけれど。それとはちょっと違う怒りのような気もしなくないけれど。ここにいる時のカズマ君しか知らない私にそこまで機微は読めない。
「一人で抱え込みすぎって話。ナツミが心配してたぞ。好きな女の子に寂しそうな顔させるな。あと、あんまり文香ちゃんを考えこませることすんな。深刻そうな顔、似合わないから」
「ははっ、似合わないって。春海さんだって随分な事言うね」
「ここは美味しいもの飲んで、美味しい物食べるお店。そこで深刻そうな顔されるなんて、俺のマスターとしての矜持が許さない。この店には似つかわしくない。俺は俺が出した飲み物をおいしそうに飲んでくれる文香ちゃんの顔が好きだから。深刻そうな顔させるな。八つ当たりするな」
「八つ当たりぐらいさせてよ。子供の駄々のうちだろ、まだ」
ふぅっと再びカズマ君がため息をつく。カズマ君はなんだか年に似つかわしくない表情を浮かべている。ユウキ君みたいに快活なタイプではなかったけれど、今日は何もかもに疲れ切ったような表情だ。かつて私もそんな表情をしている時期があった。親にSOSを出すのに疲れ始めた頃だった。諦めに混じる疲れ。精神的に疲れた顔。
「僕、大学地方の国立にしようと思うんだけど。僕から離れないでって言ったら、ナツは僕についてきてくれるかな」
「それはナツミ次第だろ。でも、ナツミの母親に好かれようと必死だったのは知ってる。お前、もともと一人称『俺』じゃん。それでもちょっとでも良く見せたくて『僕』に矯正したんだよな。意外といじらしい所あるよな」
受け手の感じ方の問題だと思う。でもそうか、一人称矯正したのか。小さい時から一緒なのに、一人称が違うっていうのもなんとなく不自然な気がするし。別にどっちだって気にしないくていいとは思う。目上の人とかの前では変えた方がいいと思うけど。
「ふだんはどっちでもいいと思うけれどな」
「良くない」
マスターが出したオリジナルブレンドをブラックで一口飲んで、僕は間違ってないと言いたげだ。でも、本当にそうだろうか?
「大事なのは、ナツミちゃんのお母さんがカズマ君に酷いことを言ったと、気に病んでいるナツミちゃんだと思う。少なくともナツミちゃんはどっちでもカズマ君の見方を変えたりしないよ。そんな子じゃないってこと、カズマ君は私より良く知ってるでしょ」
「知ってるよ。ナツは優しい。僕は自分の所為でナツが悪く言われるのが嫌なんだよ」
カズマ君は自分に怒っているのかもしれない。距離が近すぎるっていうのも難しい関係なんだな。
「ナツミはそんなの気づいてなければ気にしてもいない。カズマのことが気がかりで気がかりで仕方ないだけで。っていうか、お前はなんでも一人で抱えすぎるんだよ。まだ十代の分際で全部抱えきれるとか思い上がるな。お前が頼めば手を貸してくれる大人なんてたくさんいるんだよ。俺も源さんもみどりも。お前が頼めば、いくらでも手を貸してやる。もっと頼ることを覚えろ。ナツミはお前のそう言うところが心配なんだよ」
もっといっぱいいるはずだ。勿論カズマ君の事はカズマ君のお母さんだって案じているだろうし、付き合いの浅い私だって危なっかしいことしてたら心配ぐらいする。甘えることと頼ることは違う。正直に頼るのは確かに難しいかもしれない。私だって絶対にためらってしまう。でも、一人で本当にどうしようもない時、頼るのは悪いことではない。
「今回のお代はツケとく。ナツミに言うことがあるだろ。お前らの太陽は思ってる以上に強い女だよ、きっと」
カズマ君は鞄ひっつかんで出て行った。大人じゃないと出来ないこともあるけれど、実際子供じゃないと出来ないことの方が多い気がする。それは今だから思える事かもしれないけれど。
「カズマ君のお代は私が払うよ」
「俺がツケた分はどこ持ってけばいいんだ」
「私、眠くなったんだけれど?」
「寝床代として取っておいてってことか…」
鍵を渡された。フクロウのキーホルダーがついてる。コレ、手作りじゃないかな。めっちゃ上手だけどそんな気がする。
「可愛いだろ、フクロウ」
「うん。これ、手作り品?」
「そう。聞いて驚け、トーマスの手製。どこの国で作ったのかは知らないけど、去年手紙と一緒に送られてきた。ちなみに、みどりのはウサギ」
本当に一体何者なんだトーマスさん。手紙の消印でどこからかは分かるだろうけど、そこで作ったとは限らないしね。でも、ちょっととぼけた感じがなんとも愛らしい。
「開けたら少し窓開けて十分ぐらい換気して、風通しておいてくれる?最近忙しくて換気してないし」
「ねえ、マスター」
鍵をぎゅっと握ってマスターを見上げる。
「マスターの事、春海さんって呼んじゃダメ?」
「なんだそんな事か。別にいいよ。ユウキたちですら春海さんって呼ぶんだから」
私からすればそんな事で片づけられることじゃない。一人称と同じく呼び方だって受け取りての感じ方が重要だ。