一杯目 オリジナルブレンド
今日は気持ちいい天気。心臓破りの坂を登ってると汗ばむくらいのあったかい陽気。こういう日はよく眠れるんだよね。マスターは迷惑だろうけど。こげ茶色の扉を押し開けるとドアベルが涼やかな音で鳴る。
「こんにちはー」
「おー、文香ちゃん。午前中のこんな時間に珍しーね」
「休講になったの」
私が来るのは大体午後だ。なぜか取りたい授業や必修が午前中に集中してるせいで、朝行きたくても無理というか。朝から心臓破りの坂なんて上ったら貧血おこしそう……。
「おーい、春海ちゃーん。オリジナルブレンド」
今日は先客がいた。新聞の向こうから顔を出したおじいさんが私を見て目を丸くする。
「春海ちゃん、彼女か?彼女なのか?こんな若い子!もしや法律に触れてるんじゃ……」
さーっとおじいさんの顔が青ざめる。マスターのお嬢ちゃん呼びといい、私は20歳には見えないくらい童顔なんだろうか?年相応の顔だと思っていたのに…。
「源さんよく見て。その子、20歳だから。まー若干童顔だけど。あと彼女じゃなくて、最近よく来るよ。夕方とか」
はあー、とかほおーとか言って、じっと私の顔を見る。なんとなく居心地が悪い。じっと見られても大丈夫なくらい私の神経は太くない。帰ろうかなと踵を返しかけたところで、
「文香ちゃん、カウンター空いてるよ。後、源さん見過ぎ。文香ちゃん怖がってんじゃん」
声を掛けられ、テーブル席から一番離れたカウンター席を勧められた。
「おー、すまん。悪気はないんだ、その若い娘さんはこの店にはそんなに来ないから珍しくてな。ぶしつけだったな。俺は、朝比奈源蔵。ここの常連で春海ちゃんのことはおチビちゃんの時から知ってる」
本気ですまなそうにするので、こんなに距離を取るのは失礼な気がして、結局テーブル席に一番近い席に移動した。それを見てマスターはくすくすと笑っただけで、何も言わなかった。
「なんかされたらすぐ俺にいいなさい。春海ちゃんの弱みなんて10個位握ってるから」
「余計な事言うなよ、源さん。文香ちゃんだってそんな事言われたら困るよな?」
何といえばいいか分からないから曖昧に笑う。常連さんならではの距離感があるんだとおもう。マスターが私の前にはカフェオレ、朝比奈さんの前にブレンドコーヒーを置く。私はカフェオレしか頼まないからか、最近何も言わなくてもカフェオレを出してくれる。他のコーヒーが気にならないと言ったらうそになるけど、カフェオレがお気に入りだ。ここで初めて飲んだのもカフェオレだった。
「朝比奈さんは、いつから来てるんですか?」
何気なく質問してみた。一体常連とはどれくらい通ったらなれるのかも気になった。そもそも、ここって創業何年だろう…。
「春海ちゃんの祖父さんの代からだからな、かれこれ30年ちょっとか。あのころは春海ちゃんもおしめしてるような歳で、人見知りしないから客の誰かが常に抱っこしてたよ」
……30年前?マスターって20代半ばだと思ってたけれど、30超えてるの?これ、聞いていいのかな。ちらりと横目でマスターの顔をうかがう。
「32。文香ちゃんには言ってなかったか」
私の考えてることなどお見通しなんだろう。やはり人の年齢を見抜くには経験値が足りない。もう絶対そう年が離れてないと思ってたけれど、まさか12も違うなんて思わなかった。安藤さんが特別若々しいのか、それとも大体そんな感じなのか。私の周りにはいないタイプだ。
「てか、源さんだってその頃は40半ばで若々しかったし。葉子さんがいないと何もできない位、甘え切った夫婦生活送ってたじゃん」
自分も覚えてるか怪しい過去を暴露された仕返しか、多分朝比奈さんが知られたくなかった頃をあっさりと暴露する。
「ふん、余計な事ばかり覚えておる。まあ、良く尽くしてくれた妻だった。妻にしてよかったと思う。本当に好きだった人とは結婚できんかったがな」
「好きじゃないのに、結婚したの?どうして?ちゃんと、幸せだった?」
そう聞くと、小さくだけど確かに頷いた。その様子をみて私はわけもなく羨ましくなった。なんで、私の家は幸せがないんだろうと思った。
私の両親は恋愛結婚だったという。なんかの折に聞いただけで本当かどうか今となってはどうでもいい。今は、お互い外に別の恋人がいて家にはめったに寄り付かないし、私は母と愛人の間の子だとか、父が愛人に産ませた子だとか言われている。どれが本当かはともかく、父も母も私には興味がない。
幼少時は母が出掛ける前に作った冷たいご飯を食べた。冬はそれこそお米の表面が固くなってた。父はここ数年顔すら見てない。1つ言えば、学費は払われているという事、歳にしては多額のお小遣いを与えられてるという事。お小遣いというか、8割5分は生活費だ。家に寄りつかないから、光熱費や食費などは当然そこから出ている。お金さえ置いておけばなんとか生きていけるだろうと思ってるということだ。
「どうした、文香ちゃん。泣きそうな顔して、しんどいのか?寝てもいいぞ?」
「ううん、なんでもない……」
言ってどうなることでもない。小さいころからそれなのだから、きっと私のSOSなんて父も母も聞こえてないし、随分と前に諦めてしまった。
「なんで、1番好きな人と結婚できなかったの?」
「プロポーズを断られてな。別に恋人だったわけじゃないけど、珍しいことじゃなかったんだよなぁ、当時は。今は知らんけど。んで、その相手が春海ちゃんの祖母。昔はえらい綺麗で俺らの中じゃマドンナだった。初恋だったからな、そういう意味では特別な人だ」
人に歴史あり、なんていうけど本当だ。結婚するには2番目に好きな人がイイという。なんでかとかはよくわからない。でも、1番好きな人と結婚は出来なくても、例えば何番目だとしても幸せになることはきっと不可能な事じゃない。
「文香ちゃんは結婚願望とかあるの?」
「その前に春海ちゃんが女の1人でも連れてくるべきだろ。いい加減に身を固めたらどうだ、え?」
「まー、そのうちね。俺はコーヒーと一緒で妥協はしないだけ」
理想が高いってことなんだろうか。確かにここのコーヒーは特別美味しいけれど。朝比奈さんは呆れたようにため息をついて、代金を置いて新聞片手に帰って行った。帰り際に
「またな、文香ちゃん。俺は午前中は大体いるから。こんなじじいの話でよければまた聞いてくれ」
そういって軽く手を振ってくれたので、私も手を振り返した。
カフェオレは半分くらいになった。でも、まだなんとなく帰りたくない。基本的に無趣味だし、テレビにもネットにも興味がないし、期限のちかいレポートもない。要はやることがない。無為な時間って時には必要かもしれないけれど、まだ小娘の範疇を出ない私には勿体無い気がしてしまう。
「俺の両親はね、超大恋愛だったらしいよ。俺が3歳になるまえに事故で死んだけれど。俺は、父方の祖父母に育てられた」
「え……」
そんな暗い話じゃないよとマスターは笑う。私はそんな深刻な顔をしていただろうか。
「まあ、寂しい日がなかったと言ったら嘘になるけど、じいちゃんもばあちゃんも優しかった。それに、春海っていう最初で最大のプレゼントがあるし。母さんと出会ったのが春で、二人が好きなものが海だったから春海」
名前がプレゼント。そんなこと考えたこともなかった。そもそも、何でこの名前なのか気になったこともなければ、考えたことも聞いたこともない。何かしらの意味があるんだか、適当なのか。考えた方がいいのかもしれない。
「5ヶ月の時点ではもう決まってたって。わざわざ習字で書いてその紙を額に入れて床の間に飾ってたらしいよ」
早い上に大袈裟だよねと笑う。確かに気が早い上に大袈裟だ。でも、それくらい嬉しい出来事だったんだと想像できる。
「私は、結婚とかしたくないな」
「なんで?小さい頃憧れたって人少なくはないと思うよ」
この時点でかなり具体的につきたい職が決まっているわけじゃないけど、べつにお嫁さんは思ったことがない。というより、事務職とかで食べれるぐらい稼いで、さっさと一人暮らし。もしくは、社員寮完備ならいっそ遠方でもいい。私の夢は早い所あの家から出ることだ。大学と同時に出たかったが、
「通わせてあげるだけありがたいと思って。私だって忙しいのよ」
と母親に一蹴された。世の中保証人もなしに未成年は家もろくに借りられない。そもそもなんで忙しいのかがイマイチわからない。愛人と同棲してるくせに。
「えー、だって結婚に夢とかないし。期待もない。たとえば今好きな人がいたとして、結婚したとしても、10年後もその人が好きだとは限らないじゃん」
恋愛結婚だったとしても、所詮仮面夫婦になることがあるのを身をもって知っている。
「そうだけど、結婚ってコーヒーと似てるよね」
「苦い所?」
「そうじゃなくてさ。文香ちゃんには特別オリジナルブレンド一杯おごるよ」
ちいさなカップにほこほこと湯気の立つコーヒーを淹れてくれた。ミルクも砂糖も入れないで一口飲んでみた。甘いけど、香ばしいようなコーヒー独特の香り、どこかフルーツみたいな味がしたけど、飲み込むと口がスッとするような。これがキレだとか言われるものだろうか。初めてのんだオリジナルブレンドは、間違いなく今まで飲んだことのないコーヒーだった。コーヒーじゃないみたいだった。いや、もしかしたら私が今までコーヒーだと思ってたものが、コーヒーじゃなかったのかもしれない。
「おいしい……」
「よかったよかった。俺が初めてオリジナルで調合した奴だから。源さんに出したのは祖父さんのレシピをもとに今日の温度と湿度を考えて入れたやつだから」
はじめてでこの味って出るんだろうか?1から考え直すってこと自体が凄いんじゃ。ちなみに私はこの言葉を聞くまで、ブレンドという名前のコーヒー豆が存在すると思ってたし。
「淹れ方が複雑になるから、あんまり特殊なブレンドは作れないんだけれど。手間考えたり原価考えるとどうしても高くなるから。でも、多分単体でいれたんじゃこの味はしないよ。別に不味くはないけど、ちょっとづつ良さが違う。あー論点がずれたな、おっさんは長く語るからだめだね」
要点が分かりにくくなりつつある話をゆっくり聞く。結論を急かすつもりはなかった。けれど、何も言わなかったからか飽きたと思われたらしい。やや焦ったようにこう締めくくられた。
「ええと、つまりさ、組み合わせってものがあるってこと。ちょっとの違いでおいしくも、不味くもなる。そういうのをすり合わせていくのが夫婦ってやつだと思う」
「難しいね。不味くなったらどうすればいいのかな」
失敗したらどうすればいいんだろ。混ぜるのは容易くても分けるのは困難だ。混ぜるのも容易いとは限らないけれど。そもそもやり直しできるんだろうか?まだまだ私がこの真理を見抜くには時間がかかりそうだ。真理とはシンプルでもたどり着くまでのプロセスが多そうだ。
「もしかして結婚への夢のなさって、その酷いクマと関係してる?」
「言いたくない」
「じゃあ、いいよ。今は聞かない。まあ、爆発しそうになったり、話したくなればいつでも聞くよ。それぐらいの度量はあるつもりだし。そうだな、今は寝たら?」
ブランケットを手渡された。それはこの前肩にかけてくれたもの。もともと女性客の為に置いてるから好きに使っていいと言われていたものだった。
「ねえマスター、聞きたいことがあるんだけれど」
「なあに?」
密かに気になっていたことを思い切って聞いてみた。
「マスターの理想の女ってどんなひと?」
好みのタイプってやつだ。朝比奈さんに妥協はしないと言っていた。それが言えるってことはかなり具体的に理想のタイプってやつがあるんだと思う。そうじゃないとその言葉はまず出てこないと思うんだよね。
「ブルーマウンテンみたいな人だな」
「ブルーマウンテンってコーヒーの名前じゃないっけ」
割と有名なコーヒー豆のブランドもそんな名前だったような気がするんだけれど。割とコーヒー専門店とか輸入食品のお店とかにフツーに置いてそうな……。
「そう、メジャーなブランド豆。ブランドってのはそうなる由来が当然ある。あの香り、味、コク、あれぞまさにミスコーヒー。すべてがハイレベル」
世界でブランドって呼ばれるものは、なにかいいところがあるからそう呼ばれるんだろうけど。セレブ達が持ってたといっても、なんか気に入ったから持つんだろうし。ミスコーヒーってことはさ、
「仕事も恋もばっちり!ハイスペックで完璧な美女がイイってこと?」
「えー、やだ。そんな女絶対に完璧主義に決まってる。そんな女との結婚生活なんて考えただけで息が詰まりそう。俺には俺のやり方っていうのがそれなりにあるし」
「じゃあ、どんな人がイイの?」
「だから、ブルーマウンテンみたいな人だって」
「……少し寝る」
「どーぞ、おやすみ文香ちゃん」
カウンターに突っ伏して目を閉じる。うまくはぐらかされた気がしてならない。ブルーマウンテンについて考えていたせいか、コーヒー豆が陽気にサンバを踊っている夢を見た。シュールで最悪の夢だった。