プロローグ
この世界のどこにも私がいていい場所なんてないと思っていた。あの人に会うまでは。
轟く雷と叩きつけるような大粒の雨。いわゆるゲリラ豪雨にやられた。いくら晴天だったとしても、急に雲行きが怪しくなったなと思ったらこれだ。なんとなく大学にもいたくないけれど、家にも帰りたくない。どうせ帰らないとなら、思いっきり遠回りして帰ってやろうと思ったのが運の尽き。地元では心臓破りの坂などと呼ばれる急こう配の坂を登りきると
「店なんてあったんだ」
純喫茶ア何とか。オレンジ色の軒の文字は途中から掠れていて読めない。でも雨はしのげる。暫く雨宿りしてようと軒に入ったところで、カランッとベルの鳴る音がした。紺のエプロンを付けた男の人が私を見て、にこりと笑う。人懐っこい笑顔。
「雨宿りなら、店内へどうぞ」
その声にさそわれるように店内に足を踏み入れた。一歩踏み入れただけで分かる、全国チェーンのコーヒーショップとは違う。
飴色のソファー、こげ茶のテーブル。カウンター席を入れて十席に満たないこじんまりとした店内。でも、狭苦しさはない。雨音紛れるように小さくレコードが鳴っている。
「タオルどうぞ。お嬢ちゃん、コーヒーはいける?うちは紅茶も置いてるけど」
「コーヒー飲めるよ。あと、お嬢ちゃんじゃないよ、もう20歳」
「若いねー。おじさん、眩しーわ。学生さん?」
頷きながら、ご丁寧に引いてくれたカウンター席に座る。若いだとか、おじさんだとかいうけど、この人も20代ではないのか?どう見たって、20代の半ばくらいにしか見えないけど。まだまだ人の年齢を見分けるのは難しい。
「お兄さんは、ここのマスターなの?」
「おー。お兄さんとかくすぐったい。マスターか名前で呼んで」
「名前聞いてないしー」
そこで名乗ってないのを思い出したらしい。言動に独特のテンポがあるような、マイペースなんだろうな。会った時からなんとなくそんな気がしてたけど。
「ここ常連しか来ないからもう知ってるもんかと思ってた。名前は、安藤春海。喫茶店アクアにお越しくださいまして、ありがとうございます」
「なんか、ホテルとかの接客っぽい。私は日向文香、大学生」
しかし、そうかここアクアっていうんだ。なんでまたそんな名前なんだろう。聞いていい話なのか、あえて聞かないほうがいいのか。コーヒーが看板メニューなのか、カウンターの奥ではたくさんのコーヒー豆がお行儀よく並んでいる。知らない場所なのになんだか懐かしい。気が緩むっていうか、落ち着くんだ。考えが止まるのと瞼が落ちるのは同時だった。
「文香ちゃん、とりあえずカフェオレかブレンド……。イマドキの学生って大変なんかね。ひっでークマ。無防備な猫みてー」
夢の中で何か温かいものが肩にかかった気がした
これが純喫茶アクアに私が通いつめるキッカケとなった日である。