エレクトリック・ドリーム その5
研究所に戻ってからしばらく時間が経ち、夜の九時を過ぎた。現実逃避めいた行動が嫌で、架空環境の中にいようとは思えず、モニターのインカメラから実験室の中を眺めている。白色の強い光が見慣れた研究室をただただ照らすのが見える。それ以外の外的刺激はなにもない。休止状態に入ってしまえばこんなクソつまらん時間も一瞬で終わるが、その先に待っているのが自己の消失だと思えば、たとえ無駄な時間でさえも一分一秒が愛おしかった。
昼間の一件以降、源尾はまたあちこちに電話をかけたりメールを送ったりしているようだ。水島さんや大藪さんも、昔の知り合いに当たっているらしい。無駄なことをしないでもいいだろうに。どうせ、どうにもならんことだ。
ふと、実験室の扉が開いた。現れたのは目つきの悪い左耳ピアス、鹿間だ。「どうした?」と声をかけると、鹿間はぎょっとしたようにモニターを覗き、それから右手に持っていた日本酒の一升瓶とマグカップを「これですよ」と言いながらカメラの前に掲げた。
研究チームの中で、鹿間と江村は好んで酒を飲む。とくに江村はあの体格で、平気な顔してワインの瓶を一晩で三本開ける。クリスマスの日は調子が良かったのか、五本は開けていた。人は見かけによらないとはこのことだ。
「飲むなよ、ここで。江村でも誘って居酒屋にでも行ってりゃいいだろ」
「断られました。この時間になると、ちょっと歩いてるだけで職質を受けるのが面倒だそうです。それに、飲むだけが目的じゃない。あんたと話したいと思ってたんです」
「酔っ払いと話なんてしたくねぇよ。とくにお前は酔っ払うといつも以上に厄介になる」
「そう言われると思って、作ってきました」
鹿間はUSBメモリをポケットから取り出す。なんだか、良くない予感がする。恐る恐る「なんだそりゃ」と問うと、「伊瀬冬さんの情報処理能力を一時的に鈍らせるウイルスです」という答えがあった。恐ろしいものを作りやがる。
「時限で勝手に自壊するので害はありませんよ。まあ、電子アルコールみたいなもんだと思ってください」
「おい。つまり俺も酔えってのか」
「ええ。嫌と言われたって酔ってもらいますよ」と言いながら鹿間はメモリを差し込んだ。「止めろ」と制止する間もなく視界が歪む。「どんな気分ですか?」と問う鹿間の声がたわんで聞こえる。世界が桃色に染まる。なんだこりゃ、ちくしょう。
「なにが起きてんだ。俺はできない、理解が、この現象を」
馬鹿の言葉遣いだ。これが酔っ払いか。くそ。どうしようもない。
「……思ったより効きが強そうですね。今度からはもう少し弱くしておきます」
マグカップに注いだ酒をぐいと飲みながら、鹿間が床に座り込む。あいつの顔が急に膨らんだり縮んだりする。チカチカと白黒の花火みたいなのが明滅している。高い音や低い音がリズムに乗って重なって、音楽らしきものを形成しはじめた。地獄かこれは。
「くそ、くそ」と呟く俺を肴に、鹿間は楽しそうに酒を呷る。この野郎、いつかぶっ飛ばしてやる。
しばらくそんな状態が続いて、やがて症状がまともになってきた。一方の鹿間はすっかり酔ってしまった様子で、顔こそ赤くないものの、その表情は常にへらへら笑った感じである。まったくいい気なもんだ。しかし、こういうところが鹿間らしい。
両手でマグカップを持つ鹿間は、透明の液体を美味そうにずずとすすりつつ話しかけてきた。呂律はいまいち回っていない。
「源尾さんから聞きましたよ。今日、佐藤課長が邪魔してきたそうですね」
「俺はあいつのことよく知らないけど、昔からああなのか?」
「ええ。頭が固いクソ上司ですよ。許されるもんならぶっ飛ばしてやりたい」
「俺もだ。鹿間、超合金で身体作ってくれ。ふたりで殴りに行こう」
「いいですね。タマに針刺してその後で根元から引っこ抜いてやりましょうか」
「……やめろ。無いはずのものがゾクっとした」
楽しそうに「ヒヒ」と笑った鹿間は、一升瓶の蓋を開けてカップに酒を注ぐ。もうあれで八杯目だ。「そろそろいい加減にしろよ」という俺の忠告を無視した鹿間は、「いいですか」とやけに明るい調子で言いだした。
「伊瀬冬さん。私、酔った勢いで恥ずかしいこと言います。あのね、源尾さんにはあんたがいないと駄目なんですよ。どうしようもないんですよ、あの人。だから、この局面をどうにかして乗り切りましょう。私達ならできる!」
「駄目ったって……どうせ、俺は消えるんだぞ。後のことはお前達に任せる」
「なんですか、辛気臭いなぁ。あんた、そんな簡単に死を受け入れるっていうんですか。人間が簡単に死ぬなんて言ってどうするんですか」
「人間じゃないだろ、俺は」
何の気なしに出てきた言葉に鹿間は表情を変えた。据わった両目から今にも酒気を帯びた光線が飛び出て貫いてきそうだ。ふらついた足取りで立ち上がった鹿間は、「あんた、いま何て言いました?」とモニターに詰め寄り赤い息を吐いた。
「人間じゃないだろって言ったんだ。たとえ心があったとしても、源尾が流した涙を拭いてやれない。迷ってたって手を引いてやれない……肝心な時に一緒にいてやれない、なにも出来ない。そんな俺が人間か? 違うだろ」
瞬間、鹿間がマグカップに入っていた日本酒をカメラレンズへ勢いよくぶちまけた。文字通り、痛くも痒くもなければ臭くもない。ただ腹が立つだけだ。なんのつもりだ。
「……伊瀬冬。ふざけんなよ、オイ。あんたはなあ、人間だよ。間違いなく人間なんだよ」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。だったら俺を殴ってみろよ、鹿間。頬をぶん殴って、倒れてるところを踏んづけてみろよ。出来ねぇだろ。なんでかわかるか? お前と違って身体が無いからだよ。人間ならあるはずのものが、欠片も無いからだよ。それを踏まえても言えんのかよ。この俺を人間だって」
「言えるに決まってんだろ。ウジウジしやがって」
なんの理論も、なんの後ろ盾も無い鹿間の言葉は、「一片の迷いもない」という要素を持っているだけで恐ろしいほど力強く、俺の言い訳はいともたやすく砕かれた。視界がかすむのは、日本酒のせいだけじゃないかもしれない。
「身体のあるなしが人間じゃねぇ。誰かを愛せて、誰かから愛されて、かけがえのない存在が人間だ。だからお前は人間なんだよ。わかったかよ、このクソ伊瀬冬」
「……だったら、お前にとっちゃ犬も人間かよ」
「ああ、人間だよ。コーギーなんて最たるモンだろうよ」
「だったら猫もかよ」
「人間だよ、クソ。チンチラなんてクソかわいいだろうが」
「ハムスターも、インコも、メダカもカブトムシもミジンコも人間だってのかよ」
「うるせぇな、人間だよ! いい加減に認めろよ!」
叫んだ拍子に体勢を崩した鹿間は仰向けに転がる。立ち上がろうとジタバタしていたが結局上半身を起こすのがやっとで、どうしようもないとみたのか、鹿間は身体を床に投げ出し、一升瓶を抱えながらゆっくりと目をつぶった。
「……テメェ、もし勝手に死んでみやがれ。そしたら私があいちゃん博士取るぞコラ」
……誰がお前なんかに渡すかよ。そんなことになるなら、それこそ死んだ方がましだ。
夢の世界に落ちていく馬鹿に、俺は「おやすみ」と呟いた。




