エレクトリック・ドリーム その2
次に気づいた時に俺は布団の上で寝ていた。慌てて身体を起こせば、ここは自分の部屋だ。実家から持ってきた馴染みのテレビも、電気屋で安売りしていたのを買った小さな冷蔵庫も、型落ちのノートパソコンも、雑誌や漫画ばかりが詰まった本棚も、記憶の中の全てがある。無くなっていたと思っていた身体も無事だ。よかった、よかった。
そうだ、さっきのは悪い夢だ。疲れているせいで見たくだらん妄想だ。鹿間が女なわけがあるか。江村があんな子どもみたいな見た目してるわけがあるか。大藪さんがあんなひょろひょろなわけがあるか。水島嬢が筋骨隆々のナイスガイなわけがあるか。
陰気臭い空気を追い出してやろうと窓に近づいて手を掛けたが、がたがたと鳴るばかりで開かない。建付けが悪くなっているだけだ。落ち着け。窓に思い切り拳を打ち付けてもひびすら入らない。ノートパソコンの角で叩いたところで同じ。落ち着け、落ち着け。玄関まで駆けて扉を押したが開かない。体当たりしてもビクともしない。
落ち着け落ち着け落ち着け。
落ち着いて、それで思い出せ。名前を。現実の証を。俺の名前は伊瀬冬、伊瀬冬――。
……何一つとして、俺を俺と証明する記憶が浮かばない。生きている証が身体中のどこにもない。何者なんだよ、俺は。本当に人間じゃねぇのかよ。
部屋に戻ってカーテンを閉め、灯りを消して暗くする。布団に転がり天井を見上げる。薄いカーテンを貫いて太陽の光が顔に降ってくる。いやになるくらいの腫れ模様だ。そういえば、人生において雨の景色を見たことがない。雨に降られたこともない。雨に降られた感触も思い描けない。ただそういった常識が与えられていないだけの話なんだろう。くだらない。
俺は人間じゃない。歩んできたと思っていた人生のすべてが紛い物である。理解をなんとか呑み込むと、幾分か心が楽になってくる。もう動揺はない。ただ、虚しくなるだけだ。
過ぎない時間を無暗にやり過ごしていると、部屋に誰かが入ってきた。かわいげな見た目とは裏腹に大人びた態度の小学生――改め、マッスルガイの〝水島さん〟だった。どういうわけだか、今は〝水島嬢〟の姿だが。
「やっほー。調子はどう、伊瀬冬くん」
「……その恰好、どうにかならないんですか?」
「いいじゃない。こっちの方が見慣れてるでしょ?」
「中身がわかったら奇妙なだけですよ。どうにかしてください」
「もう」と頬を膨らませながら言った水島さんは、光の粒子に包まれたかと思うと、記憶に新しい筋骨隆々の姿になった。「これでいい?」と問いかけてくる声も男のそれへと変わっている。
「いいですけど……さっきまでのは何だったんですか」
「私の分身。かわいいでしょ。丹精込めて作ったの」
そう言うと水島さんは俺の寝転ぶ布団の横に「よいしょ」と腰掛けた。ぎぃと床が軋む音がする。
「伊瀬冬くん、だいぶ落ち着いたみたいね。さっきまではこの世の終わりって感じだったのに」
「落ち着いたっていうか、諦めただけです。どうにもならんですから」
俺は天井の方を向いたまま訊ねた。
「水島さん、ここはどこなんですか」
「あなたの家、いわゆる架空環境ってヤツ。それと、水島さんなんてやめて、今まで通り呼んでいいけど?」
「……筋骨隆々の方に嬢なんて付けられませんよ」
「あらそう。でも、ひとつ言っとく。〝嬢〟、じゃなくて〝丈〟。水島丈は私の名前」
水島さんは「カッコいい名前でしょ」と言って笑う。とりあえず「まあ」と答えると、「嫌いなのよね、この名前」とばっさり切り捨てた。なんだこいつは。
話すこともないので黙っていると、水島さんは勝手に喋りだした。
「あいちゃん、今かなり大変よ。伊瀬冬くんと私達研究チームを引き取ってくれるところが無いかって、色々な研究機関を駆けまわってる」
「あいちゃんって、源尾のことですか」
「もちろん。それ以外に誰がいるの?」
「……本当にこの世界にいるんだなって思って」
「いるに決まってるでしょ。あなたにとって欠かせない存在なんだから」
「……会いたいですね」
「どうせすぐに来るわよ、伊瀬冬くんを世界で一番大切に思ってるあの子のことだもん」
「……よくわかりませんが、テストとやらを失敗した俺にそんな価値があるとは思えませんけど」
「そんなものじゃない? 人間、自分の価値には自分自身ではなかなか気づけないものらしいから」
視界の端に映る大きな背中をちらりと見る。両手の指を組んで少し前のめりの姿勢になっていた水島さんは、ふとジャケットのポケットに手を入れると何かを取り出した。身体を起こして見てみると、彼が持っているのはビニール包装に包まれた大きな飴玉だった。
「……やっぱりこれ、私からは渡せないわ」
「なんですか、それは」
「あなたにとって大切な思い出。色気のない言い方をすれば記憶のバックアップ。落ち着いたら渡すようにってあいちゃんから頼まれたけど、私じゃちょっと力不足だから」
水島さんは飴玉をポケットに戻すと、ベッドから腰を上げてこちらに手を振った。
「じゃあね、伊瀬冬くん。また会いましょ。次に会う時は、曲げたおへそしっかり直しておいて」
〇
することもない状態だと、くだらない考えばかりが頭を巡る。
源尾あいとは俺にとって何だったんだろうか。昨日までのあの姿も偽物で、あの笑顔も偽物で、あのやり取りも偽物で、そもそも俺の初恋の記憶すら偽物で……真実と呼べるものはひとつとして存在しない。
でもこうして落ち着いてみると、何故だろうか、あの〝夢の姿〟が偽物だとわかって俺は不思議と納得している。いやむしろ、「偽物でよかった」とどこか安心している節さえもある。理由なんてわからん。ヤマ勘だ、あるいは虫の知らせだ。とにかくAIと呼ぶにはおおよそ似つかわしくないなにかのせいだ。
なんなんだ、俺は。本当にAIか? 感情に任せて床で拳を叩いた。痛みは無かったし、かすり傷ひとつも付かない。今度は自分の手の甲を抓ってみた。同じく痛みは無かった。そうか、AIに感覚なんてものがあるはずもない。考えればわかることだ。だがこれだけじゃわからん。布団から立ち上がって窓に頭を繰り返しぶつけてみたが、やはり痛くない。「やるぞ」と気合いを入れ、思い切りあかんべーをして舌を噛んだが、痛いどころか歯に触れたという感触すらない。くそ、やっぱりAIじゃねぇか。
そんな風にあからさまに阿呆なことをしていると、「伊瀬冬くん」と声がした。部屋の入り口に立っていたのは源尾だった。昨日の夢と同じく高校生の姿だ。変な行動を見られていたのが恥ずかしかったせいで、俺の口からは「おう!」とやけに明るい挨拶が出た。
「その、どっから見てた?」
「……頭を壁にがんがんぶつけるところから見てた。大丈夫?」
「平気だ。別に自殺しようってわけじゃない。ただ俺の身体がこの世に存在しないことを確かめてただけ」
「そう」と呟いた源尾は気まずそうに部屋をあちこち見回すと、「伊瀬冬くん。今、いいかな?」としどろもどろしながら言った。「いいぞ、遠慮するな」と返すと、源尾は遠慮がちに部屋の端に座った。俺もその正面に腰掛ける。
「……まず、改めて今回の件はごめんなさい。あんなテスト、今考えても最低だと思う」
「別にいいんだ。正直、昨日までの源尾が偽物だってわかって安心してたしな」
「……どういうこと?」
「わからん。けどもしかしたら、本物の源尾のことを覚えてたのかもしれん。ほら、今の源尾とあの源尾じゃ全然キャラ違うだろ」
「……ごめんなさい。やっぱり、ああいう女の子らしい子の方が――」
「そういう意味じゃないんだ。今の源尾が俺にとっては本物だぞ」
源尾は伏し目がちになりながら「ありがとう」と呟き、ブレザーのポケットから大きな飴玉を取り出して俺に差し出した。
「これ。水島さんに頼んでたんだけど、『あなたから渡しなさい』って言われて」
「〝大切な思い出〟、ってやつか」
飴玉を受け取った俺はそれを手のひらの上で転がしてみる。これを身体に入れると、俺は俺でなくなって『ISY』とやらに戻るんだろうか。それとも、『伊瀬冬くん』のままでいられるんだろうか。どちらに転ぶかはわからないけど……どちらにせよ、その前にやっておきたいことがある。
「なあ、源尾。これを食べる前に、〝本物の源尾〟を見せてくれないか?」
「……今はやめておいた方がいいよ。きっと、記憶を取り戻すのが嫌になるから」
「後か先かの話だ。見せてくれ」
迷ったように視線を泳がせた源尾は、やがて決心したように「わかった」と頷く。すると源尾の周囲を白い光の粒子がぼんやりと包み、二秒後にはまったく別の姿に変わっていた。
年齢は二十台半ばを過ぎたくらいだろう。太陽の気配を感じさせない白い肌。困ったような下がり眉。一重のまぶたに芯の強さを感じる瞳。少し小さい鼻。タートルネックの赤いセーターにジーンズ。知的な印象を受ける長い黒髪とフチなしの眼鏡。座っていてもわかる背の高さ。それと、右の頬の大きな古傷。
俺は「笑ってくれないか」と頼んだ。源尾は遠慮がちに微笑みを浮かべる。その笑顔には卒倒級の破壊力があって、世界がふにゃりと歪んだような気がした。
そうだ、この笑顔だ。目の前にいるこの人こそが、俺にとっての〝源尾あい〟だ。
「その……記憶が戻ったら恥ずかしくて言えないかもしれないから言っとく。今の源尾は、昨日までの源尾より何倍もかわしいし……綺麗だ」
半ば興奮しながら恥ずかしい台詞を勢いで言い切った俺は、唖然とする源尾を視界に入れながら飴玉を口に放り込んだ。




