ウォーリー その6
窓の外を見れば太陽が呑気に輝いている。不安になるくらい晴れ渡った空だ。澄み渡った青の中に笹塚さんの笑顔が鮮明に思い出されていやになる。間も無くして源尾が部屋に入ってきた。見ているだけで呼吸が苦しくなる表情をしていた。「伊瀬冬くん」と喉から絞り出した源尾は、俺に抱きついて声を出さずに涙を流した。
どうして俺は悲しむ源尾に声のひとつも掛けてやれないのだろうか。理由は簡単だ。俺が笹塚さんじゃないからだ。彼女ならきっと、源尾を元気にさせられるのに。今の源尾に必要なのは笹塚さんだ。俺じゃない。
源尾はしばらく泣き続けた。やがて「ごめんね」と言って俺から離れ、ベッドの上に丸まって座って枕を抱きながらまた泣いた。こうなると、俺に出来ることはたったひとつしかない。
小さくなった源尾に「行ってくる」と呟いて、玄関扉を開けて外に出る。瞬間、周囲の景色が一変し、俺は彼女の待つ教室の前にいた。扉の隙間からは軽快な『枯葉』が耳に聞こえる。扉を静かに開ければ、ピアノを弾く笹塚さんの背中があった。
「あの」と声をかけると、彼女は驚いたように「うぉ」と声を上げ、演奏を止めて振り返った。
「君か。はじめましてじゃないよね」
「ええ、一度会いました。それで、一緒に大学祭を周って、ライブを聞いて、あなたはその後に……」
――死にました。俺達の目の前で。そんなこと言えるわけがない。言葉に詰まる俺に「どったの?」と首を傾げる彼女へ、「なんでもないです」と俺は答えてさらに続けた。
「その、源尾がいろいろ大変で。俺じゃどうしようもないくらいに泣いちゃって。助けてもらえませんか?」
「そりゃ大変だ。でも、私じゃたぶんだめだと思う。君が頑張るべきなんじゃないかな」
「ダメじゃありません。源尾には笹塚さんが必要なんです」
「だめでしょ。だって私、死んでるんだから」
金属板で後ろから頭をぶん殴られたような気分だった。「気づいてたんですか」と問うと、彼女は「そりゃ自分のことだしさ」と言って胸を張る。無理に明るくしているようには見えないのが却って不安になる。どうしてこの人はここまで落ち着いていられるのだろう。もしかしたら、頑なに「だめ」と言うのにも何か理由があるのかもしれない。
……それでも俺には、源尾の笑顔を取り戻すためにこの人を頼る以外の手段が思いつかない。『伊瀬冬くん』じゃ何もできない。俺は「お願いします」と深く頭を下げた。
「……いいの? 本当に私なんかに頼って。あいちゃんは、君が守らなきゃいけない人じゃないの?」
「……お願いします」
「……わかったよ。でも、きっとだめだよ」
笹塚さんは小さく息を吐き、それから俺の肩を軽く叩いた。「ありがとうございます」と言ってから頭を上げると、景色はすでに源尾の部屋の中へと戻っていた。依然として枕を抱いて泣き続ける源尾は、俺達が現れたことに気づいてすらいない。いやもしかしたら、先ほど俺がここから消えたことすら気づいていなかったのかもしれない。
笹塚さんが「あいちゃん」と呼ぶと、源尾は糸に引かれたように顔を上げた。抱えていた枕を放りだし、「笹塚さんっ!」と潤む声で名前を呼び、ベッドを飛び出して彼女に抱き着いた。俺には一切目もくれなかったが、それでいい。どうせ俺では頼りにならない。
「笹塚さん、ずっとここに居てください。そうすればきっと大丈夫ですから」
「わかったわかった。泣き虫あいちゃんのためとならば仕方ない」
固く抱き合うふたりを見て安心した俺は、そっとその場を離れて部屋から外に出た。しばらくふたりきりにしてあげたかったのか、それとも俺がひとりになりたかっただけか。きっと後者だ、くだらない。
後ろ手に玄関扉をそっと閉めたが、先ほどのように景色が一変するということはなかった。世界の中心である笹塚さんが部屋の中にいるせいかもしれないと俺は考えた。
少し道を歩いていったところで、振り返って源尾の下宿先を見た。赤い屋根をかぶった二階建てのアパートだ。思えば、源尾とここを歩いた時はそんなことすら確認する余裕もなかった。ちょっと手を繋いだくらいで勝手に舞い上がって、ずいぶんと俺も馬鹿だ。
その時、空から警笛が聞こえた。今までの夢の中では聞いたことのない、こちらの焦燥感を煽るような音だ。空を見れば、見たことのない赤い塗装の電車が走っている、というよりも、落ちている。
そうだ、落ちてる。源尾たちのいるアパートに向かって。
「源尾っ! 笹塚さん! 危ないっ! 外っ!」
叫びながら走り出したが、もうすべてが手遅れだった。まるで質量を持った赤い落雷のように真っ直ぐ落ちたそれは、アパートを屋根から突き破り、空気が震えるほどの轟音と共に建物の一切を容赦なく潰した。
唖然とする間も無く景色が変わる。また源尾の家だ。怖いくらいに先ほどまでと寸分変わらない。窓から外を見たが、電車は空に見当たらない。
身体中の力が抜けるような感じがして、俺はついベッドに腰掛けた。いくら待っても、源尾は部屋に現れなかった。
◯
どれだけ時間が経っても、空の太陽の位置がちっとも変わらない。時計の針は秒針だけぐるぐる回っている状態だ。何度回ったのかは、虚しくなるのでずいぶん前に数えるのをやめた。源尾は未だ現れない。笹塚さんもだ。ふたりしてどこに消えたのか。
夢の世界で死を迎えると人はどうなるのか。そもそも、死ぬってなんだ。意識が消えて、真っ暗になって、それで終わりなのか。だとすりゃ怖すぎる。今までの人生で考えたこともないようなくだらない問題が脳内を覆う。だめだ、どうかしてる。
このままこの部屋にいたら頭がどうにかなりそうだ。部屋を出た俺は行く当てもなく歩き始めた。道を歩く人は俺以外に誰もいない。車もバイクも通らない。飛行機だって見当たらない。それどころか生活音だって聞こえない。世界から人間という構成要素が欠けたようだ。
抑揚の無い道をただひたすら真っ直ぐ歩いて行くと、いつの間にか源尾の大学まで辿り着いた。ここまで来てなお人影は見当たらない。人で溢れかえっていた正門前も、屋台の並んでいた広場も、ライブを聞いたあの部屋も、そして笹塚さんがピアノを弾いていたあの教室にも、どこに行っても誰もいない。
夜の孤独は当たり前に受け入れられるし、耐えられる。だが、太陽が輝く間の孤独は死にそうになる。誰でもいい、何でもいい。声を、言葉を聞かせてくれ。
導かれるように俺は屋上へ昇った。フェンスに近寄り眼下を覗いてみる。ほんの一瞬だけ、笹塚さんの死体が血だまりの中にいくつも転がっているように見えて、慌ててまぶたを擦ったら残らず消えた。
その時、どこからか『枯葉』が微かに聞こえてきた。しかしピアノで演奏された音ではない。どこか牧歌的な響きのある音だ。きっと誰かが近くにいる。それだけを信じて屋上から順々に階を降りていって教室を確認していったが、どこにも人の姿はない。広場まで出ると、教室棟にいる時よりも却って音までの距離が近づいた気がした。
『枯葉』の音だけを頼りに歩いていく。やがて俺が辿り着いたのが、構内にある礼拝堂の前だった。演奏は未だ続いている。ようやく人に会える。意を決して両開きの扉を開くと、天窓から差し込む光ばかりが頼りの薄暗い空間には、中央の通路を挟むようにして等間隔に長椅子が並んでいる。通路を歩いた先の一段上がったところで、蛇腹に鍵盤がついたものを演奏しているのは笹塚さんだ。あの楽器はたしか、アコーディオンといったか。
「笹塚さん」と声をかけると、彼女は演奏をやめて楽器を床に置いた。
「お疲れ。ようやく来たね。待ちくたびれたよ」
「源尾はどこですか」
「もういないよ。君じゃあの子を救えないって、わかったから」
「……そりゃそうですよ。あいつに必要なのは笹塚さんです。俺じゃない」
「そんなことないんだけどね。結局私はどこまでいっても、あいちゃんの作り出した幻影だからさ。過去の幻影に彼女が救えるわけがない」
「だったら、俺にどうしろっていうんですか」
「今の君が救わなくちゃならなかったの。昨日や一昨日と同じように。一昨日あなたは、『いじめられた記憶からの決別』であいちゃんを救った、昨日は『過去の行いへ諦めという意味付け』をすることによってあいちゃんを救った。今日も君は同じようにできるはずだった。できて欲しかった」
「……どうすりゃよかったんですか、俺は」
「今回あいちゃんに必要だったのは、『決別』でもなくて『意味付け』でもなくて、『受容』だったの。笹塚さんの死を受け入れることだったんだよ。そうすることで、ようやくあいちゃんは過去の記憶と決着をつけることができた。それがこの世界の〝答え〟。だから君は、その手助けをしなくちゃいけなかった」
「……でも、できなかった」
「そう。できなかった。正直、君以上に哀しいのは私だよ。君の力で、君の言葉で、君の行動であいちゃんの涙を止めて欲しかった。でも仕方ないか。やっぱり無理があるのかな、『伊瀬冬くん』じゃ」
笹塚さんは俺の肩を叩いて、「残念だよ、本当に」と呟いた。
いくつかのため息が重なって聞こえる。
ああ、失敗した。




