ウォーリー その4
人の流れに沿って道を歩いて行くと、すぐに大学まで辿り着いた。大学名を見ようとそれとなく表札へ視線を向けたが、〝夢まつり〟と書かれた張り紙で隠されている。なんだあんなもん、剥がしちまえ。
校門を抜けたところから伸びている石畳の緩やかな坂には、イルミネーションで飾られたバルーンで出来た大きなアーチが掛かっている。坂の中腹左手にあるのは、ずいぶんと時代錯誤な煉瓦造りの小ぢんまりした建物だ。
源尾はその建物を指さして、「礼拝堂だよ」と説明してくれた。曰く、卒業式と入学式以外に解放されることが無い、大学にとって神聖な場所とのことだが、〝夢まつり〟のチラシが外壁の至る所に貼り付けられているのを見るに、夢の中ではその限りではないらしい。
礼拝堂を左手に見ながら順路を行くと広場のようなところに出て、そこでは数多くの屋台が出店していた。フランクフルトやたこ焼き、ロングポテトと称するものなど、様々なものが祭りでなければ馬鹿らしくてとても買えない値段で並んでいる。
冷やかしがてら少し屋台を見て周ろうかとも考えたのだが、人が多すぎてそれどころではない。いったんこの場を離れ、少し時間を置いてから改めて来ようということになって、俺は源尾の案内で教室棟の方へと避難した。
六階建ての教室棟は外から見ると観光地のホテルみたいな見た目をしていて、桜色の外壁が特徴的だ。中へ入れば存外造りは至って普通で、昼白色の光が廊下に反射して目に眩しい。教室棟に屋台は無いが、休憩室と化している部屋が多く、それなりに多くの人がいる。人のいない、静かな場所を求めるうちに俺達は五階まで階段で昇った。
誰もいない廊下に、静かなピアノの音色が微かに聞こえてきたのはその時のことだった。跳ねるようなこの音楽は、ジャンルでいえばジャズにあたるのだろうか。詳しくは知らないが、気持ちの良い音だということはわかる。ずっと聴いていたっていいくらいだ。
源尾はそっと「『枯葉』だ」と呟き、演奏を邪魔しないよう注意するかの如く静かに歩き出した。その後を追う俺も、足音を立てないよう注意しながらゆっくりと進む。
やがて源尾はピアノの音が漏れて聞こえてくる教室の前で足を止めた。そっと扉を開くと、教室最後尾の長机に置いたキーボードの鍵盤を一心不乱に叩く女性の後ろ姿がある。短く切った髪を揺らしながら演奏を続けるその人を見た源尾は、「笹塚さんだ」と囁くように言った。
「……懐かしいな、笹塚さんのピアノの音」
「知り合いなのか?」
「うん、一個上の先輩だよ。でも、ちょっと遠くに行っちゃって……もう会えないと思ってた」
「声かけるか?」
「……ううん、そっとしておく。なんて声かければいいのか、わかんないし」
音を立てないよう扉を閉めてふっと息を吐いた源尾は、どこか清涼感のある少し悲しい笑顔を見せた。ふたりがどういう関係性なのかは知らないが、少なくとも悪い思い出がある仲というわけでもないようで、ひとまず俺は安心した。
〇
「笹塚さん」の演奏に名残惜しさを感じつつ六階へ昇る。人のいない空いた教室があったので、そこでしばらく休んでから一階に戻り教室棟を出ると、広場の人ごみは先ほどよりも幾分かましになっていた。
それから二人で色々と大学構内を周った。真っ先に目についた屋台で羊肉の串焼きを買い、それを片手に射的の屋台へ行き、そこで見事手に入れた大きなくまのぬいぐるみを通りすがりの女の子にあげて、代わりに貰った演劇のチケットで男女の悲恋を描いたミュージカルを見て、広場に戻ってイタリアンと称するソース焼きそばにミートソースをかけた見た目とは裏腹に味のしない料理を共に食い、休憩がてら入った講堂で偶然開かれていたバイオリンのコンサートに耳を傾けた。
時間にして三時間足らず。灼熱の瞬間はあっという間に過ぎ去った。ここが人生の到達点で、あとは下がっていくばかりでもおかしくない。いやむしろ、起きたら棺桶の中にいても納得できるとさえ思った。
気づけば太陽が落ちてきて、空は橙色である。線香の煙みたいな薄い雲がいっぱいに広がる中を、すっかり見慣れた黄色の車体が飛んできた。構内にはまだまだ人がいて、祭りの夜はこれからといった様相だが、俺達の時間はここで終わりだ。
電車は広場の中央にゆっくりと着陸し、出迎えるかのように乗車口が開く。周囲を行く人はとくに驚く風でもなく、本来ならあり得ないその光景を当たり前のように受け入れている。
今日は何事もなくただただ平和だった。源尾にいいところを見せられなかったのは少し残念だが、危険な目に遭うよりずっといい。
夢の出口に足を掛けながら、源尾は俺を見て微笑んだ。
「ホッとしたよ、わたし。また今日もなにかあるんじゃないかって思ってたから」
「俺もだ。でも、面白くて、楽しくて、しあわせなのが普通の夢だろ? 明日からはきっと、ずっとこんな感じだ」
「それなら嬉しいな。こうやって、夢の中だけでも伊瀬冬くんと楽しく過ごせるなら、それが一番だから」
手を取り合って共に電車へ乗り込む。乗車口が閉じて、車体が上昇をはじめる。窓の外を見れば、教室棟屋上に多くの人が集まっているのが見えた。その中に例の「笹塚さん」の姿もある。
「笹塚さんだ」と源尾が呟き、小さく手を振った。それに気づいたのか、薄く笑った笹塚さんがこちらに向かって手を振った瞬間――彼女の背後に向かって勢いよく走り込んできた誰かが、その背中を強く押した。
屋上から落ちていく笹塚さんを笑いながら眺めていたそいつは、〝あの〟佐藤だった。
〇
次の瞬間、俺は電車ではないどこか別の場所にいた。窓際には木製のベッド。姿見鏡に、背の高い本棚がふたつ。横に広い棚と、その上に置かれたノートパソコン。目につくものはそれくらいしかない、整理の行き届いた清潔感のある空間。源尾の部屋だ。しかしここにいる理由がわからない。もちろん原理もわからない。
「どうなってんだよ」と呟いたその時、玄関扉が開く音が聞こえた。部屋に現れたのは源尾だ。顔からは血の気が引いており、立っているのもやっとという様子である。
ふらふらとした足取りで歩み寄ってくる源尾を支え、ベッドに腰掛けさせた俺は、台所でコップに水を汲んでそれを渡した。何も言わずに震える手でそれを受け取った源尾は、青い唇をコップにつけた。
水を一口だけ飲んで、息を深く吐いた源尾は、透明な水面に視線を落としながら「ごめんね」と呟いた。
「謝ることない。それより平気か? いや平気じゃないよな。悪い、変なこと聞いて。とにかく、あれだ。こっから出よう。駅だ。駅に行って、電車に乗ろう」
「うん」と頷いて力なく微笑んだ源尾に手を貸してベッドから立たせる。歩くのを手助けしながら共に部屋を出て駅まで向かうと、空飛ぶ電車が口を開けて待っていた。「大丈夫だからな」と源尾へ声を掛けながら車内へ入ると同時に扉が閉まる。音も無く浮き上がった車体に嫌な予感を覚えたのは、進行方向に源尾の通う大学が見えたからだ。
やがて間近に迫った桜色の外壁の教室棟。その屋上にはつい数分前と同じように笹塚さんの姿がある。
「おい、待てよ。やめろ。やめてくれ」
「笹塚さん、やめて、もう……」
空飛ぶ電車に気づいた彼女は、薄く微笑みこちらに向かって手を振る。瞬間、駆け寄ってきた佐藤が彼女の背中を一切の躊躇なく押す。気づいた時に俺は再び源尾の部屋にいる。間を置かずに源尾が部屋に入ってきて、力無く膝から崩れ落ちる。
俺達は笹塚さんの死を中心としたループの中にいる。信じられないし、信じたくも無いが……信じなければ、きっとここからは抜け出せない。




