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ウォーリー その1

 人はよく、「悪いことほど忘れられない」と言う。しかし俺の場合は逆だ。悪いことは右から左へと流れていき、良いことばかりが記憶に蓄積していく。


 近頃はといえば源尾の笑顔、源尾の声、源尾の振る舞い、源尾の手の柔らかさ等々。そういったことばかりが記憶として蓄積され、それ以外は綺麗サッパリ消去される傾向にある。まったくバカらしいが仕方ない。俺を含めて男なんて八割はこんなバカで、残りの二割はもっとバカだ。


 ……そういえば、昨日の夕飯はなに食べた?


 食べたことは間違いないとは思うのだが……それすらもロクに覚えていない。





「――泣き虫お姫様とそれを助ける王子様。ステキな響きね」


 一昨日から続く俺と源尾の冒険譚を聞き終えた水島嬢は、甘いキャラメルを頬張ったようにうっとりとした表情でそう言った。ここまで高評価を貰えると、こちらもつい得意になってしまう。「そうかぁ?」とあくまでもなんでもない風を装った俺は、込み上げてくる照れの笑いを隠すためにアイスコーヒーのグラスを傾けた。


「どっかの眼鏡には、またメルヘン過ぎるなんて言われそうだけどな」

「言わせておけばいいじゃないの。光ちゃん、あなたに妙な対抗心を燃やしてるだけなんだから」

「水島嬢の方がよっぽど大人だ。爪の垢を煎じて飲ませてやりたい」

「みたいじゃなくて、実際にそうなの」


 水島嬢は大人のウインクを華麗に極める。俺がこの子どもと同学年なら、もしかしたら惚れていたかもしれないとにわかに考え、勝手にぞっとしたその時、『2045』の扉が開いた。現れたのはインテリぶった黒縁眼鏡の現実主義者、鹿間である。


「ほら。ウワサをすればなんとやら、ね」と呟いた水島嬢は席を立つと、キッチンへと引っ込んでコーヒーの準備にかかる。ロマンに傾倒する一方で喫茶店員としての使命に忠実なのが、水島嬢のいいところである。


 さて鹿間といえば、店の様子をきょろきょろと眺めながら「なんですかまた。これは」といかにも怪訝そうな顔をしている。無理もない。俺もつい十数分前には、あんな顔をしていた。


 どうやら水島嬢と大藪さんの店員風コンビの間でひと悶着あったらしく、昨日までは海の家をイメージして飾り付けられていた『2045』の内装は、白と黒を基調としたシックなものへと変わっている。ラジカセやサーフボードなどは姿を消し、チェス盤、シンプルなスタンドライト、観葉植物などの落ち着いた印象を与えるものに置き換わっている、のはいいのだが、ヴィーナスを思わせるギリシャ彫刻めいた銅像が店に入ってすぐのところに鎮座しているのは、果たしてどちらの趣味なのだろうか。


 俺の対面の席についた鹿間は、ふぅと息を吐いて頬杖を突きつつ俺を見た。


「……またずいぶんと機嫌のよさそうな顔をしてますね」

「そりゃそうだ。なんでだかわかるか?」

「まさか、また例の夢を見たから、その話をしようってんじゃないでしょうね」

「そのまさかだ。聞かせてやろうか」

「やなこった。浪漫主義に魂を売るなら死んだ方がマシですよ」

「んなこと言いやがって。俺のとこに来たってことは、『人間失格』のお前も本心では話聞きたいんだろ」

「バカ言わんでください。私はね、この席が好きなだけです」


 そう言って鹿間は腕を組み、眉間にしわを寄せた。


「しかし、伊瀬冬さんもよくやりますよ。会えない相手に熱を上げるとは」

「会えないわけじゃない。会えてないだけだ。いずれ会う」

「どうだか。向こうは会いたくないかもしれませんよ」


「なんだとこの野郎」と強気に応じたはいいものの、鹿間の言うことに心当たりが無いわけでもない。源尾と直接電話した時は、理由はどうあれ「直接は会えない」などと言っていたではないか。「会えない」というのはつまり、「会いたくない」の言い換えではないか。


 弱腰になった俺の心を見透かしたように、鹿間はぐっと詰め寄ってくる。


「だいたい、〝現実〟の源尾さんは伊瀬冬さんが見る夢の姿とは違うかもしれないんだ。もしも本当にあんたが源尾さんと会うことになったとしましょう。どうします、待ち合わせ場所に現れるのはその人と似ても似つかない目つきの悪い女かもしれない。もしくは、筋骨隆々のマッチョメンかもしれない。あるいは、小学生みたいに小さな色気のない女かもしれない。そうでなけりゃ、モヤシみたいにひょろひょろの男かも。とにかく、夢と現実は別物なんですから」


 この野郎。ここぞとばかりに意地悪な理詰めで責めてきやがる。人の心が無いのか。鬼か悪魔か、そうでなければロボットだ。


 しかしながら、人間普段の行いが良よければ助け舟というのは往々にして現れるもので、俺達の間につい先ほどまで店の奥で休憩を取っていた大藪さんが割って入ってきた。


「こらこら、鹿間くん。そうイジめなくたっていいだろう」と彼は鹿間をやんわりと咎める。「しかしですね」とぼやく鹿間は納得していない様子だったが、大藪さんの無言の笑顔に圧されたのか、それ以上の反論はなかった。


「ずるいや。ここには伊瀬冬さんの味方しかいないんだ」と鹿間は肩を落とす。


「まあ、そうスネるなよ。今日のコーヒーは俺が奢ってやる」

「下手な哀れみは結構。それより、夢の話は金輪際せんでください」

「約束してやる。ただ、夢じゃなくなった時は別だぞ」

「望むところだ。もしそんな日がくるなら、いくらだって聞いてやりますよ」


 こうして俺達がロマン対リアルの戦いの一時休戦を決めたその時、店の扉がカランコロンと音を立てながら開き、最後の常連客である江村がやって来た。俺と鹿間へ冷たい瞳で一瞥くれた江村は、嫌なものを見た猫のようにぷいとそっぽを向くと、自身の指定席に浅く腰掛けて窓の外を眺めはじめる。傷心の俺には援軍が必要だ。俺は鹿間の腕を掴んで引いて、江村のテーブルへと移動した。


「何?」と江村は表情を変えずに言い、長い脚を組み替える。


「助けてくれ。こいつがどうしようもないことを言いやがるんだ」

「い、伊瀬冬さん。要らん事言わないでいいんですよ」

「いや、言うね」と鹿間の制止を振り切った俺は、さらに続けた。


「この野郎、またくだらんことを言いやがった。〝現実〟の源尾は俺の夢見る源尾とは違うかもしれないだと」


「詳しく聞かせて」と言ってロマン主義の江村は鹿間をじろりと睨む。鹿間の野郎、あからさまに動揺した顔をしてやがる。いい気味だ。


「例えば、もし俺が現実の源尾と会ったとする。そうしたらな、こいつの言い分だと待ち合わせ場所に現れるのは目つきの悪い女かもしれないし、筋骨隆々のマッチョメンかもしれないし、小学生みたいに小さな色気のない女かもしれないし――」


 驚いたのは次の瞬間だ。にゅっと伸びてきた江村の右拳が鹿間の右頬を貫いたのである。


 あまりに突然のことに驚き、言葉を失っていると、続けざまに左拳が放たれて反対側の頬が打たれた。拳を受けた鹿間は唖然としている。


 暴力沙汰はさすがに望んでいなかったので、俺は「まあ待てよ」と割って入って対話の道を探ったが、江村は無表情で拳を振りかぶっており、暴力第一主義を崩すつもりは無いと見える。だからといってこちらも拳を固めればそれこそ戦争で、とりあえず殴らせないようにとテーブルへ身を乗り出して鹿間を庇ってやっていると、大藪さんと水島嬢が異常を察知して江村を止めに掛かった。


 ふたりから腕を掴まれながらも、なおこちらを見据えながら拳を固める江村は、やはり無表情のままである。急に殺し屋の血にでも目覚めたのか。


「とりあえず帰った方がいいんじゃないかな」と大藪さんは俺に提案したが、こんな状態で帰ろうとは思えない。「大丈夫か?」と必死で江村に呼びかけていると、水島嬢から「出てけって言ってるの」とドスの利いた声で言われてしまい、結局は帰宅を余儀なくされた。


 扉を開ける時に振り返ってもう一度江村の顔を見たが、やはり表情は変えないまま、ただただ鹿間へ視線をぶつけていた。


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