ずっと側にいて その5
化粧台の引き出しからハンドタオルを取り出した俺は、それを源尾にそっと手渡した。黙って受け取った源尾は、それを顔に押し当てて嗚咽を必死に押し殺した。見ていては悪いと思ったので、俺はベランダに出て夜の風にあたった。どこを見ても街灯りは見えず、塗りつぶしたような暗闇が四方から迫ってきているようで息苦しさすら覚えた。
源尾の涙の理由はきっと、後悔と反省だろう。佐藤とかいう友人が捕まったきっかけは、〝特製アプリ〟を作った自分にあると、そんなことを考えてしまっているのだろう。俺から言わせればすべてはその佐藤の自業自得だが、源尾からすればそう易々と割り切れないであろうことはわかる。
呑み込まれそうになる黒い空を見上げて過ごしていると、源尾がベランダに出てきて「ごめんね」と言った。目も鼻先もわずかに赤い。
「大丈夫だ。だから、もう帰ろう」
「……いいのかな、帰っても」
「いいに決まってる。ほら、行こう」
源尾はこっくりと頷くと黙って俺の手を取った。
共に部屋を出た俺達は、夢の出口がある屋上庭園へと向かう。廊下を歩く間も、エレベーターに乗り込んでからも、源尾は口を閉ざしたままだった。俺はそんな源尾にかける言葉がなく、上昇感をこちらに与えずに切り替わっていく階数表示をただ眺めることしかできなかった。
やがてエレベーターは屋上に到着し、俺達は箱の外へと歩み出た。電車にぐるぐると巻きついていた太い鎖はいつの間にか消えている。暗闇の中に車内灯がぼぅっと光っていて少し不気味に見えた。
電車に歩み寄って出入り口の前に立つ。しかし扉は開かない。仕方ないので力を込めて引いてみたが、やはり開く気配が無い。蹴っても叩いても同じ。窓も同じく、開きもしなければ割れもしない。不安そうにこちらを見る源尾へ「待ってろよ」と声を掛け、扉に体当たりを試みようと腰を深く落としたその時、「逃げられると思ってるの?」という声がどこからか聞こえた。やがて電車の背後から歩み出てきたのは、カレー屋で見かけた髪の長い女だった。
「なんの用だ」と牽制すると、女は答える代わりに長い髪を後ろ手に一本でまとめ、隠れていた顔を月明かりにさらけ出した。そこで俺は、そいつが佐藤だということを理解した。
佐藤は真っ直ぐ源尾を指さしながら、ふらふらとこちらに歩み寄ってくる。源尾を庇うために一歩前に出た俺は、そいつを睨みつけた。
「あなたのせいで、私は学校を辞めたの。あなたのせいで、私の人生は滅茶苦茶になったの。あなたは一生ここにいるの。それがあなたの罪を償うたったひとつの方法」
「ふざけんな。源尾を巻き込むんじゃねぇぞ。全部自分が悪いんだろうが」
「そうかもしれないねぇー。でも、あいちゃんはそうは思ってないんじゃない?」
振り返って源尾を見れば、スカートの裾を握りながら青白い顔で震えている。
「源尾、あいつの言うことなんて気にしちゃダメだ。お前は、自分が作ったものをあいつがなにに使うかなんて知らなかったんだろ?」
「違うの」と首を横に振った源尾の声は涙で震えている。
「全部知ってたの、わたし。でも、人の頼みを断って、気に入らないって思われたくなかった。中学生の時みたいに、またいじめられるのがイヤだった。もう、ひとりになりたくなかった。だから作った。佐藤さんがなにをしていて、なにに使うか、わかってたのに……」
「よくわかってるじゃん。さっすが、私の友達」
佐藤は口元をわずかに歪める。悪意の塊みたいなひどく嫌味ったらしい笑みに熱くなるものを覚え、俺は思わずそいつに詰め寄ったが、襟元へと伸ばした腕は空を切るに終わり、情けないことに体勢を崩してその場でこけるに終わった。
「さあ、立って立って。あなたのあいちゃんがあんなに困ってるんだからさ」
せせら笑う声が聞こえる。頭の熱はますます高まって、握った拳を地面へ打ち付けそうになったが、源尾の顔を見て思い直した。
……そうだ。俺がやるべきことは、この女に対して無暗に怒りを爆発させることじゃない。過去に囚われた源尾を救ってやることなんだ。
鼻から深く息を吸って、口から大きく吐く。新鮮な空気が頭から身体の全てを冷却する。拳をゆっくり解いた俺は、開いた手のひらで源尾の肩を軽く叩いた。
「……源尾。高校生のころのお前は、はっきり言って貧弱だ。でもって、今も貧弱だ」
「……うん。ごめん。わたしのせいで――」
「でもな、それは俺も同じだ。俺も高校生のころは貧弱だったし、今も貧弱だし、オマケにこれからもずっと貧弱な自信がある」
俺は後ろ歩きで源尾と少し距離を取り、「見てろよ」と声を掛けた。やや伏し目がちになった源尾がきちんとこちらを見ていることを確認した俺は、脚を細かく動かしてみたり、肩をクイっと上げてみたり、腕を力強く広げて見たりと、記憶の中にあるマイケル・ジャクソンの『Bad』のダンスを再現しようとした。しかし、当然ながらというか、俺の踊りはマイケルのそれとは遠く離れたところにある。同じ人間とは思えん。センスの無さに泣けてくるのをぐっと堪え、サビの辺りに差し掛かったところで歌もつけてみたが、高いところが安いホイッスルみたいに掠れる。なんだこりゃ。呪われてんのか俺の喉は。
呆れたような佐藤の「なにやってんの?」という至極真っ当な意見を、息切れしながら「黙ってろ」とねじ伏せた俺は、踊りというか少数民族の儀式的パフォーマンスを中断し、「マイケル・ジャクソンだ」と源尾に笑みを向けた。源尾が丸い目をしながら斜めに首を振ったのは、当然の反応だと思う。
「歌声は蚊の羽音より不快で、ダンスは酒飲んだスズメのレベル。はっきり言って最悪だ。夢の中だってのに俺は、スーパーマンになれてもスーパースターにはなれない」
額に流れる汗を拭いながら、俺はさらに続けた。
「夢の中でこの程度なら、現実はなおさらだ。人間なんて全員そろって貧弱で、なにしたってどうにもならないことだってある。だからな、源尾。お前はお前を許してやらなくちゃ駄目だ。そうしなきゃ源尾は、いつまで経っても高校生の時の自分から一歩踏み出せないし……俺は、鏡の前で延々とマイケル・ジャクソンのダンスを練習しなくちゃならん」
そう言って俺は源尾の前でヘタクソなムーンウォークを開始したが、三歩ほど進んだところで足がもつれ、後ろ向きに転ぶに終わった。
見上げた黒い空。やがてそこに、クスと小さな源尾の笑い声が響く。それと同時に水滴を落としたような波紋が空に広がり、夜の世界は徐々に朝へとひっくり返っていく。身体を起こせば、涙を拭いながら笑う源尾の表情が見えた。
「泣きながら笑うヤツがあるかよ」と俺が言うと、源尾は「だって、おかしくて」と言ってまた笑い、俺に細い腕を伸ばした。
「ありがとう、伊瀬冬くん。わたし、もう大丈夫だから」
「ふざけんな」と強い怒気と共に発したのは佐藤だ。倒れ伏した身体はすでに昨日と同じように半分以上が白い砂と化していて、今にも消えかけといった体である。
「私の人生ブチ壊しといて自分だけしあわせになるつもり? ふざけんなよ……ふざけんなふざけんなふざけんな!」
「佐藤さん、本当にごめんなさい。でもね、伊瀬冬くんの言う通りなんだと思う。あの時、わたしは間違えたし、佐藤さんも間違えた。進まなくちゃいけないと思う。お互いに」
悔しそうに息を呑んだ佐藤は大きく舌打ちをすると、俺へ目を向けてにやりと笑った。
「……せいぜい気を付けなよ。道を踏み外せばあんたも私と同じように消えるんだから」
妙な捨て台詞を残した佐藤は完全に砂へと変わり空に散った。乗車口が開き、電車は警笛を空に響かせる。源尾は「帰ろう」と俺の手を引いた。それに従い歩み出し、夢の出口に足を掛ける。
「あとはもう一回だけ」という声が微かに聞こえたような気がした。




