パプリカ その1
この世で最も愚かな男とは、一体どんな男だろうか?
素手で熊に挑む男? 泳いで大西洋を渡る男? それとも、虹の根元を求めて旅する男? いや、それらのどれもが間違っている。
この世で最も愚かな男とは、夢の中で出会った女に惚れる男だ。
ご存知の通り、夢とは決して現実にはなりえない。つまり夢に現れた人は、どれだけ世界を練り歩こうが現実に現れることはない。そもそも夢の世界とは、自分の薄汚い欲望が余すことなく反映された空虚な世界であり、そしてそんな世界ならば自分にとって何もかもが都合のいい人が現れるのは必然で、すなわち、夢で出会った相手に惚れる男は、分をわきまえることなく〝運命〟などというくだらん偶然を追い求める大馬鹿者というわけだ。
ところが、俺の場合は違う。
俺の夢に現れたのは、俺にとっての初恋の人だった。その人は俺の記憶と寸分違わぬ容姿で、寸分違わぬ性格で、寸分違わぬどうにもならなさを秘めており、笑顔には卒倒級の破壊力を秘めていた。
遠く過ぎ去った在りし日と同じように、いくら手を伸ばしても彼女の背中は遥か遠く、決して届くことは無かった。「仲がいい友人」以上に関係が進展することは決してありえず、こちらを振り返ってはにかむ彼女へ、夢中の俺は「えへへ」と薄気味悪く笑って手を振り返すのが精いっぱいだった。
そうだ! だから俺は決して大馬鹿者ではない! 記憶の奥底に沈めた宝箱の片隅にちょこんと居座る初恋の思い出との予期せぬ再会に胸ときめかせる俺は、ロマンチストと、まさにそう呼ぶにふさわしい!
今日から俺のことは、『ロマンチスト』伊瀬冬と呼ぶがいい!
〇
「馬鹿なんですか、伊瀬冬さんは」
正面に座る男は俺の演説をたったの七文字で軽々ぶった切り、黄色いインクで羊の顔が描かれた文庫本を片手に湯気の立つ熱々コーヒーをずずと音を立てながら吸った。余裕ぶった態度がなんとも小癪なこの眼鏡の男の名は鹿間光という。この喫茶店『2045』の常連であること以外のすべてが不明な謎の男だが、刹那的出会いの結果に顔見知りになった男の情報なんて、その程度知っていれば十分だろう。
鹿間の胸倉へ伸びそうになる腕をなんとか抑えた俺は、「ロマンに走ることのどこが悪い」と言い返し、味のしない喉を潤すためだけのアイスコーヒーをグラスに直接口をつけて飲む。「すべてですね」と短く言い放った鹿間は、本を閉じつつ淡々と続ける。
「あいにくと私は夢を見ないんでね。あんたの気持ちは恐らく一生わからんでしょう。だけどこれだけはわかります。あんたは馬鹿だ、大馬鹿者だ。あとついでに、気持ち悪い」
あんまりな物言いに、俺はつい腕まくりしながら「なんだとこの野郎」と立ち上がる。鹿間も「やるか、このすっとこどっこい」と江戸っ子風に応じ、ぐるぐると両肩を回しながら席を立つ。
とりあえず両者ファイティングポーズを取ってみたが、お互い拳を振るうまでの蛮勇もなければ理由もない。そもそも痛いのはそこまで得意ではない。しかし今さら退くわけにいかず、とりあえずしかめ面で互いに牽制しあっていると、「ハイハイ、やめて」とキッチンの方から助け船が出された。
「伊瀬冬くん、光ちゃん。喫茶店よ、ここ。ファイトクラブじゃないの」
これは助かった。拳をほどいた俺はさっさと尻を席に戻す。鹿間なんかは何事もなかったようにホットコーヒーをずずと吸っている。呆れるほどたいした男である。
鹿間は暇そうに紙ナプキンで鶴を折りながら言った。
「しかし、ここを喫茶店と呼ぶには客が少なすぎますね」
「俺が知ってる客といえば、俺とお前と、あとは江村くらいだな」
「同じく。経営はどうなってるんだか」
「そもそも、店員もいなけりゃメニュー表もない。オムライスはどこだ。ナポリタンはどこだ。喫茶店と名乗るには足りないものが多すぎんだろ」
「うるさい、そこ。美味しいコーヒーを出す美人の店員がいれば、そこはもう立派な喫茶店なの。つまり、仮にここが路上でも、私がいるから喫茶店よ」
喫茶店の定義について大胆な持論を展開しつつ俺たちの席へホットコーヒーを片手にやって来たのは、先のケンカの仲裁人、水島嬢である。エプロンを着けて背筋をピンと伸ばし、すました顔と落ち着いた言動で立ち振る舞う姿は、いかにも立派な喫茶店員だが、年齢は十歳の小学四年生。わざわざ名前の後ろに『嬢』と付けられる呼び方は、この大人びた態度に由来するのだろう。法律的にも倫理的にも引っかかるところがあるゆえ、『2045』に正式に雇われた店員ではないのだが、長くなるのでここでは割愛する。
「美人とか自分で言うか」「そもそもこのコーヒーは美味しくない」「というかほとんど水だ」などという俺達の意見を「あっそ」と受け流した水島嬢は、俺の隣の席へ「よいしょ」と年寄り臭く掛けると、持ってきたコーヒーを自分で飲みながら店内を見回した。つられて、俺と鹿間もぐるりと首を回す。
揺らぎ打つ硝子窓から差し込む太陽の光、動いているところを見たことがないレコードプレーヤー、天井にぶら下がる安い洋燈、本棚には一週間遅れの週刊誌が一式、若草色の革が張られた椅子と、木目調のテーブル。コーヒー豆を挽くがりがりという音。まるで時間に取り残された空間。タイムカプセルの中にいるみたいなもんだ。
「眼に映るすべてがレトロでしょ。いいわ、最高。設計者に拍手ね」
「わかったような口聞くな。まだレトロの良さもわからん子どものクセに」
「伊瀬冬さんだって、産まれたばかりみたいなもんでしょう」と鹿間が俺をちくりと突き、「そうそう、宇宙的観点から言えばね」と水島嬢がすかさず続く。二対一では勝ち目がなく、俺は黙ってコーヒーを飲んだ。
店の入り口の扉が開き、真鍮製のベルがカランコロンと鳴る音がしたのはその時のことだ。入ってきたのは、この店の常連組、最後のひとりである江村まなみだった。レディーススーツを隙無く着こなし、常に表情をほとんど変えず、すらりと伸びた長い脚を見せつけるように威風堂々歩く姿は、まさに『大人のオンナ』と呼ぶにふさわしいが、喋ってみると案外気さくな面もあり、くだけた会話にも乗ってくれる。
こちらへ一瞥くれた江村は何も言わずに、店の一番奥、窓際の席へと腰掛けた。何が気に入っているのか知らんが、江村はいつもあの席に座る。そしてぼんやりした顔つきで外を眺め、時折、俺たちの会話に割り込んでくるのを日課としている。
いつものように江村へホットコーヒーを給仕し、「いらっしゃい」と店員らしく微笑んだ水島嬢は、俺たちの席へと戻ってくると、再びコーヒーを飲みながら喋りだす。
「それにしても、私もさっきの伊瀬冬くんの話、気になるな。夢の中でどんな人に会ったの?」
「聞かなくたっていいでしょう、あんな話」
「イヤなら鹿間は耳を塞いでな。俺は話すぞ」
怪訝そうな顔をする鹿間をよそに、俺は夢で再会した初恋の人について語って聞かせた。
「その子は『源尾あい』っていってな。とにかくすべてがカワイイ存在だった。当然二重のまぶたで、目は大きい上に丸くて、鼻筋はすぅっと真っ直ぐ通ってて、眉はきりっと力強さがあって、肩甲骨のあたりまである髪を後ろで二つ結びにしていて、白い肌だけどきちんと健康的で、透明感があって、よく笑う子だった。中学校に上がって、それから夏にならないうちに引っ越したから行方はわからんけど、まさか夢でまた会えるとは思ってもなかった」
「なるほどねぇ」と嬉しそうに微笑んだ水島嬢は、ふとなにかに気づいたように眉をひそめると、まじまじと俺の顔を覗き込んだ。
「……ちょっと待って。夢の中で出会ったそのお相手は、中学生の時の姿そのまま?」
「いや、たぶん小学生の時の姿だろうな、ありゃ。制服は着てなかったし」
すると、どういうわけか水島嬢はふと立ち上がり、俺の隣から少し離れた場所へ席を移す。
「待て、水島嬢。なんで席を変える」
「いやホラ、私だって透明感あるし、かわいいし……」
「お前みたいな生意気の具現化と俺の初恋を一緒にするな」
俺達のやり取りを間近で見ていた鹿間が、「付き合っちゃいられん」と言いながら席を立ったのはその時のことだ。「どこ行くんだ」と問うと、鹿間は「仕事です」と簡潔に答え、財布から五百円玉をひとつ取り出してテーブルに置いた。
「ではまた。コーヒーをご馳走様でした、水島さん。それと伊瀬冬さん、ひとつ忠告しておきますが――」




