2:魔術統制都市ゾウント・マッガ
点灯師の念のリズムに合わせて薄青色の魔導灯が通りを照らし、両舷に六名ずつの反重力術師が操る空船が独特の掛け声も勇ましく暗雲垂れ込める空を横切る。
ソルムリアの東海岸でも特に魔術的進歩の著しい都市であるゾウント・マッガの街は、深夜の鐘が鳴り響いたその後も変わらぬざわめきと猥雑さを保っていた。
そんな眠らぬ魔導都市の中にありながら、場違いなほど静かな一角。魔導資源の枯渇で半ば放棄された旧市街だ。世代遅れの建築群には心身のダメージで魔術を操れなくなった物、生来魔導に触れられぬもの、つまり健常の魔術師達の曰くところの『魔法弱者』が集い、燃料や蝋、ガスが生み出す赤橙の光と熱を囲んで暮らしていた。
人智を越えた魔術師達に混じって働き、生きる暮らしですっかり精神をすり減らした魔法弱者が泥のように眠る夜の旧市街。その通りの外れの聖堂では、修道僧達が蝋燭の炎を頼りに何やら作業にいそしんでいた。
二十人ほどの僧侶達が向かう机には紙の束が積み上げられ、皆一様の動きで筆を走らせる。印刷技術も魔法印字も用いない、古式ゆかしい写本の作法だった。
とはいえ、彼らが作成するのは、聖典・祈祷書の類でも、豪奢な装飾本の類でもない。
彼らが写し取り、広めんとするのは呪紋と呼ばれる魔術の類。紋様を指やペンでなぞるだけで術者の素養才覚を問わずに魔術を呼び出し、加熱や冷却、傷の治癒を行うことができる古い呪術だ。ゾウント・マッガ市の魔導維持法においては違法魔術ではあるが、魔法弱者の集う旧市街では根強い需要があり、だからこそ呪紋を信奉する修道僧の一団『カルヴェラニア兄弟団』がこうして活動もできていた。
ソルムリアとは大洋を挟んだ反対側の大陸からやってきた彼ら兄弟団は、その活動のごく初期においてはソルムリア政府とも友好関係を築き各所に修道院を開いていた。しかし、大気や土中からの魔導抽出の効率化を目指す魔術規格の統一運動と、魔導維持法の成立によって他の異郷の魔術と共に邪教の烙印を押され、今では迫害を逃れてこういった棄民地区に雌伏するほか無くなっていた。何を隠そうこの聖堂も、主人と信徒を失って荒れるに任せていたところをとりあえずで占拠しているに過ぎない。
そういった事情もあって、目前で貧する魔法弱者達に呪紋という福祉を与え善をなし、やがては地に落ちた兄弟団のソルムリアでの再興のため、ある者は脇目も振らず、またある者はあくびを必死で嚙み殺しながら、僧侶達は皆それぞれに禁制品の呪文書を写本していた。
夜更けの鐘が鳴り、熟練の僧侶の筆致にも流石に疲れが見え始めた頃、聖堂の奥、かつては伝道師が熱弁を打ったであろう一段高い演席に腰掛けて瞑想していた老いた僧侶が突然目を見開く。白髪と髭が灰色のフードと絡まって混ざり合い、超自然の雰囲気を醸し出すこの老人はメザード僧長。齢百とも百五十とも言われる、ソルムリアの兄弟団の最古参のひとりだ。
居眠りとは明らかに異なる不動の瞑想から突如現実へ立ち返った老僧長は鼻と口から目一杯に息を吸い込み
「備えよーーッ!」
そう叫んだ。暴風のごとき声量が聖人の逸話を描いたステンドグラスの作品群を震わせる。
驚いた僧侶達が写本の手を止めて身構えるのと、通りに面した分厚い扉がかんぬきごと打ち砕かれるのはほぼ同時だった。
僧侶達の隠れ家になだれ込んできたのは、薬液で煮出され、虹色の光沢を持つ革製のコートに、薄青の鏡面仕上げに磨かれた魔導アーマー。各所に配された金色の装飾も眩しい彼らは、数あるゾウント・マッガ市の執行機関でも特に厳格にして情け無用で鳴らす神殿武官の一個小隊だった。
「邪教坊主ども、旧市街の場末に隠れるとはな。異端の臭いがこの下品な煙で誤魔化せるとでも思ったか?」
武官の中でもひときわ豪華な装飾の兜を身につけた指揮官が吐き捨てて、燭台に挿された蝋燭の炎の一つを指でつまんで潰す。
「野郎ッ」
赤いフードをかぶった兄弟団の僧の一人が椅子を弾き飛ばして立ち上がり、その右腕から閃光と轟音。ゆったりとした袖の中に隠し持っていた小型拳銃が炸裂し、攻撃予測を魔術センサーに頼っていた武官の頭部装甲に一撃を食らわせた。銃身と弾頭に刻印された呪紋の魔力によって常軌を逸した初速と貫通力を得た弾丸を受け、武官は頭部のバイザーから火花を散らしてよろめく。しかし、予想外の展開はそこまでだった。
「そんなオモチャで!」
お返しとばかりに武官が構えたパルスケインが炸裂、秒間十三連射の分解魔法が僧を得物の銃ごと細かな塵と灰に吹き飛ばし、聖堂を煙らせた。
「こうなりたくなければ全員動くな!とはいえ禁書の所持には厳罰。さらに禁書の執筆・写本は裁判抜きだからなァ……全員この場でこうなるか」
嘲笑うかのように漏らす指揮官の手の合図に合わせて、十二名の神殿武官がそれぞれの武器を構える。兄弟団の僧達は観念し身を震わせ、あるいは祈り、もしくは机の下に隠した貧弱な武器を握りしめて最後の時に備えるが……
「禁書に対抗して……キン塩!!見ろッ!ヒヒヒーーーッ!!!!」
その時!一触即発の聖堂内に全裸の中年男が絶叫と共に大介入!慄然たる短躯をその禿頭を器用に用いた一点倒立により天地反転させるや、大開脚で誰も望まぬ秘所を晒し、その中心に鎮座まします双玉に天然由来の粗塩を振っては揉み込む狼藉三昧を繰り広げた!かくなる猥行にて著述に勝るとも劣らぬ肉体表現の自由を訴求せんとするが、デリケートゾーンへの塩分投与による想像外の激痛にたちまち悶絶!理性のかけらも感じられない絶叫とともに修道僧の灯していた燭台に山と積まれた禁書もろとも転倒!火だるまになり絶叫しながら聖女の逸話が描かれたステンドグラスを突き破り、闇夜の底に消えた……
「なんだ……?」
聖堂の中の着衣の誰もが、裸体による一連の珍行を理解しきれず、茫然自失かに思われた、しかし
「備えよ!」
聖堂最奥から再び一喝。見れば老いたメザード僧長だけは、珍事の隙に取り出した大筆を用いて聖堂の内壁一面に見事な呪紋を描き上げていた。
兄弟団の僧達はそれを一瞥して素早く対策を取る一方、弾圧者たる神殿武官はその大紋に僧長が込めた呪術が逃走か、闘争かの判断に逡巡し……
結局その一瞬が命運を分けることになった。
深夜の旧市街にて起きた聖堂跡地の爆発は、翌朝には邪教魔術の摘発作戦の一環であると発表されたが、事情通によれば瓦礫の中から回収された十六体分の遺体のほとんどは、神殿武官の鎧に身を包んでいたという。
その翌日から、旧市街全域は数週間にわたって神殿武官による執拗な摘発と強制捜査の旋風に晒され、さらに数ヶ月後には都市再開発事業を名目とした立ち退き指示まで発令された。やがてゾウント・マッガの旧市街は成立以来何度目かの完全な無人状態となり、今や厳重な障壁の内側では、住人の子供が見よう見まねで壁に描いた白墨の魔除け紋が、日没とともに赤紫の輝きを灯すのみとなった。