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第3章

「お〜い、壮太君、真由ちゃん、こっちこっち。」

石川がヴィッツの前で手を振っていた。その手に導かれるように、駆け寄っていく。二人が車に乗ったのを確認すると、石川はエンジンをかけ、那覇の街へと車を走らせた。

「それにしても、最近ガソリンが高くてね〜、いや〜難儀だよ。なんせ沖縄は車が命だから!」

石川がフロントミラーに移った自分の顔をちらりと見ながら、そう、こぼした。真由は、

「そう、ですね。」

突然のことに戸惑い、軽く相槌を打って流した。

40分ほどして、那覇の街に到着した。石川は学校の正門前で車を止める。

「ありがとうございました。」

真由は車を降りた。壮太はまったく動かない。

「壮太、寝てるの?着いたよ。」

真由は体を揺さぶってみるが、その体は恐ろしく冷たく、真由の血の気を奪う。

「壮太、着いたよ?」

石川が車のドアを開けた瞬間、血の気が引き、意識を失った壮太の体が地上に転げ落ちた。突然のことに通りかかった車が急ブレーキをかけ、けたたましいブレーキ音が辺りの空気を切り裂く。

「そ、壮太君!?」

「え…!?」

車から飛び降りたドライバーが目の前の光景に青ざめている。

「いかん、救急車、壮太君のご両親にも連絡しないと!」

石川はあわてて携帯電話を手にした。真由は、目の前の光景が信じられなかった。なぜ「病院」という言葉から連想できなかったのか、自分を責めた。青々とした木の葉のざわめきが不気味に大きく、校舎の壁も道路も、石川の車のネイビーブルーも、すべてが色を失い、モノトーンになっていく。壮太の体は生々しいほどに冷たく、真由の筋肉から熱を奪っていった。

救急車の担架に壮太が乗せられ、運ばれていく。救急車に壮太が乗せられ、救急隊員が乗り込むと、そのまま運ばれていった。去りぎわのサイレンの音が無機質に真由の鼓膜をつんざいていった。

真由は呆然と立ち尽くす。それ以外に何もできなかった。乾いた声で搾り出したのは、

「ここからだと、どこになりますか?」

だった。石川はあごに手を当てながら、少し考えると、

「那覇総合病院じゃないかな?ちらりとそう聞こえたよ。」

と、答えた。

「そうですか…。」

その声は無機質で抑揚もなく、いつもの張りは失われていた。

「とりあえず、今日は帰りなよ。急なことでびっくりしたかもしれないけど…。」

「はい、今日はありがとうございました。」

真由は家路に着くものの、一歩一歩は短く、ずいぶんと遠い。風景もやはりモノトーンで、映画のサイレントシーンそのものだった。いつも真由が気に入っている、夕暮れに染まる小高い丘の赤も今は何の感銘も与えない。どのぐらい時間が経っただろうか。ゆいレールのおもろまち駅前ビル2階の広場から行き交う車を眺めていた。腕時計にちらりと視線をやると、すでに7時15分を指していた。重い足に鞭を打ち、家のある小高い丘に向かって歩き出す。試合に勝った喜びも今は消え失せていた。

陸の中腹にある家のガレージにはグリーンのカローラ。グレーがかかった白いタイル地の家に茶色いドア。複雑な鍵を開けて、真由は家に入る。

「ただいま…。」

「おかえり、真由。クラスメートの子が倒れたんだって?さっき、壮太君のお母さんから電話があったんだよ。」

出迎えた母親の一言に真由はぎょっと目を丸めた。母親は怒る様子もなく、淡々と、しかしなだめるように続けた。

「びっくりしたでしょう?さっき壮太君のお母さんが教えてくれたんだけど、あの子、子供の頃小児がんにかかって、搬送された先の病院で肺に転移しているのが見つかったらしいよ。」

「小児がん!?転移!?」

真由にそんなことを知る余地などなかった。壮太が小児がんだと言うのは知っていたが、手術が成功し、治ったと思っていた。その上友達からも、先生からも、壮太が休みがちだったなどとも聞いていない。高校から壮太は普通に通学していたのだ。

「私…知らなかった…。」

「いいのよ、壮太君、真由が帰ってくるまでには意識戻って、お母さんとお話していたそうよ。『今日は楽しかった。真由ちゃん、ありがとうね。』って、お母さん言ってたわ。」

安堵したような、悲しいような。真由はひとつため息をついた。

「さ、もうあがりなさい。」

「うん…。」

真由は目頭が熱いのをこらえながら、玄関の敷居を越えると、何も言葉を交わすことなく部屋に閉じこもり、ベッドの上に身を横たえた。

小児がん。

壮太にのしかかっているその現実が真由にのしかかった。熱気をはらんだ部屋の空気はいつも以上に重く感じられ、気づくと、枕元においてあったくまのぬいぐるみを抱きしめていた。


こんなことになるなら…、

もっと気を配っていたのに…。


真由は吐き出したくなるような衝動と闘っていた。横になっていても何かすっぱいものがむかむかとこみ上げてくるのがわかった。日曜日、真由は部屋の中に引きこもり続けた。


明くる月曜になって教室のドアを開けると、そこに壮太の姿はなかった。壮太がいない教室はまるで別の次元の空間にでもいるような、そんな錯覚にとらわれてしまう。女子グループのたわいもないおしゃべり、じゃれあう男子は何も変わっていないのに。

真由は力なく、机に腰を下ろした。壮太の身のこと、何も知らないで、どうして野球を見に行こうなんて、誘ったのだろうか。押し寄せるのは、深い自責の念ばかりだった。真由を蝕んでいく罪の意識は、どす黒いが波打っている、地獄以外のなにものでもない風景だった。

いつの間にかチャイムが鳴った。ショート・ホームルームということで、担任の黒川が教室に入ってきた。

「はい、立ってください!」

教室にいたクラスメートがまだ冴えない頭のせいか、立ち上がるタイミングは海原の波のように気まぐれだった。壮太のことで気が重い今日もまたこの黒川の眠気を促すような声で一日が始まる。

「今週の掃除担当は教室が3班で、トイレが4班です。それぞれ確認しておいてください。連絡事項は以上です。それから、みなさんに、お知らせしておかなければならないことがあります。」

いつになく真剣な顔で黒川は切り出した。

「嶺井君のことです。このようなことをみなさんにお知らせしなければならないのは大変残念ですが、先日、嶺井君は肺がんという診断が下り、そのため、しばらく入院することになりました。」

教室の中は騒然とする。眠気に冴えない頭をハンマーか何かで殴られたかのような衝撃が教室中を走り抜ける。すでに知っていた真由はますます気が重くなる。

「みなさん、落ち着いて。」

教室中が静まり返った。

「退院の目処は今は立っていません。まだ高校生ですが、このような重大な病気と闘う嶺井君は明日生きるために必死なのです。みなさん、せめてできることとして、嶺井君の回復を願いましょう。そして、退院した時は温かく迎えましょうね。それから、比嘉さん、」

一方の真由はと言うと、ずっと俯いたままで、黒川の声など届いてもいなかった。真由は奈落のそこに突き落とされたまま、這い上がる糸口すら見つけられていないのだ。

「比嘉さん。」

黒川はすかさず真由を呼び続けた。

「は、はい!」

黒川の一言にやっと気づいた真由は、あわてて返事をした。

「後で、お話があるので、この後廊下まで来ていただけますか。」

「はい。」

黒川は小さく笑んだ。そして全体を見渡して一呼吸おいて、

「以上でショート・ホームルームを終わります。みなさん、立ってください。」

ばらばらと全体が立ち上がる。だが、ホームルーム前の気だるさは立ち消え、戸惑いと動揺の空気がまだ全体に広がっている。

「はい、礼。」

と、締めくくる、と、同時にキーンコーンとチャイムがなる。黒川に呼び出された真由は教室から外に出た。

「あぁ、比嘉さん。」

「先生、何でしょうか。」

「嶺井君のことなんだけど…あなたとは幼馴染って聞いているわ。」

真由は少し俯いた。責めるのならどうぞ、覚悟はできていますから。と、顔に書いた。

「比嘉さん、自分を責めることはありませんよ。」

黒川もやはり母と同じようなことを言う。そんな言葉が、欲しいわけじゃないのに…。

「私もね、知り合いの人がね、がんで亡くなったの。20年ぐらい前、私の教え子のお父さんだったわ。」

真由は目を見開き、黒川をじっと見つめた。

「まだ40歳ぐらいの人だったんだけどね…。とっても朗らかで、いい人だったわ。私もお見舞いに行ったことがあるんだけど、最後まで気丈に、がんと闘っていらしたわ。危篤になっても、息子さんのことを最期まで案じて、ね。今、その子は琉球大医学部を卒業して、那覇総合病院で内科医をしてるのよ。」

真由は黒川の話す言葉を一つ一つ、精一杯丁寧に受け止めた。しかし、それは絶望的な壁でもあった。小説を書くくらいの真由は根っからの文系人間で、医療に対してまったく資質がないことが、今になっていまいましくのしかかる。

「私は、医療に興味は…。」

「いいのよ、比嘉さん。無理に医療に興味を持とうとする必要はないわ。あなたにはあなたの役割がある。あなたにしかできないことが必ずあるわ。それを探しなさい。嶺井君は那覇総合病院の502号室に入院してるから。」

何だかよく呑み込めない黒川の言葉に真由は微妙な面持ちのまま頷いた。

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