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第1章

 水面に月光が揺れている。淡く、蒼く、海を染める。黒の中にほんのり光る青に溶ける。心も、体も。船のサーチライトが遠くに光る以外、ここには何もない。白いワンピースが大きく暗く、蒼い海に円を描く。

 彼はこの海に融けていった。幼い頃に患った小児がんが再発し、全身の至るところに転移、蝕んでいた長い日々。あの頃の真由にしてやれることは、もう何一つ残されていなかった。滄海の懐に抱かれながら、彼は海に融けていった。湧き出ては流れ、湧き出ては流れ、を繰り返していた感情という名の大きな波。とめどなく、果てなく、呑み込んでいく。海にこうして身を預ければ、いつでも彼に会える、今はそんな気がしている。

 

 あれはもう、5年前だろうか。那覇東高校3年6組、教室の窓から楽しそうなおしゃべりを交わす女子生徒のグループ、走り回って先生に叱られる男子生徒の群れを、真由はぼんやりと眺めていた。1時限目が終わったばかりだと言うのに、すでに蒸し暑い教室の熱気が制服のシャツに、グレーのスカートに纏わりついて気持ち悪い。机の上には現代国語の教科書にノートに、柔らかいコーラルピンクのペンケースが無造作に広げられていた。教室の中を見渡せば、やっぱり窓の外と同じような光景が広がっていた。じゃれあう男子生徒、たわいのないおしゃべりを延々と続ける女子生徒のグループ。小さく、ため息をついた。軽い寝不足の頭をにぎやかな教室と窓の外の声が一緒くたになりながら、すり抜けていく。

 キーンコーン、と、チャイムが鳴った。男子生徒、女子生徒は気だるそうに各々の席についていく。程なくして現国担当の教諭にして、真由達の担任でもある黒川七恵が教室に入ってきた。定年まで後数年と迫った初老の彼女の髪はふんわりしたパーマがかかり、きれいに染められている。水色のブラウスに紺のパンツとこの世代の女性の身だしなみとして、こぎれいにまとめられている。

「きりーつ!」

「礼!」

「はい、それでは、昨日の続きから。教科書の89ページを開いて。」

眠気を促すような黒川の声を通しながら、黒板の白い文字を眺めていた。ふと、斜め向かいの席に座っている幼馴染の嶺井壮太に目が行った。まだあどけなさが残る男子が多い中で、少し長めの髪は端整な顔立ちを際立てている。こうしてよくよく見ていると、どきりと胸が鳴るのがわかる。もう10年以上付き合いがあるっていうのに、いまさら何を緊張してるんだろう。自分でもわからない。

「比嘉さん。」

「は、はい!」

突然飛んできた黒川の変化球に真由はなかなか頭を切り替えられなかった。

「91ページの4行目から読んでください。」

「はい。」

ちらりと壮太に視線をやれば、視線がかち合ったような気配を感じ取る。お経のように抑揚の少ない教科書の評論文を読む真由の声だけが教室に気だるく響いていた。その間も壮太がくすくす笑っていたような気がした。

 

 放課後、授業を終えた達成感からにわかに活気付く教室で、真由はかばんを手にした。今日も絶好調な那覇の太陽に小さくため息をつく。

「真由。」

机の右手に立っていたのは例の嶺井壮太だった。高校で初めて同じクラスになった3年生、同じ教室に入ってからも、それなりに自然に打ち解けていて、互いに呼び捨てで呼び合う昔ながらの仲は10年間変わらず健在だった。ちょっといじらしくて、かわいいところもあるのに、真正面から改めて見てみると、少し長めの前髪は端整な顔立ちを引き立てている。少し幼い印象を与える高めの声、制服の白シャツに黒いズボンがずいぶんとよく似合い、女子からはかなりモテモテなんだとか。真由が幼馴染と言うことで、ちょっと壮太と仲がいいせいか、それとなく目をつける女子もいるらしいが、真由はそんなことぜんぜん気にしてもいなかった。

「今日って文芸部は活動なかったよね?」

「うん。ないし、帰るけど。」

「じゃあ、一緒に帰ろうか。」

「高校3年生にもなって、何また子どもみたいなこと言ってんの?まぁ、でもいいわ、一緒に帰りましょ。」

途端、壮太はにこりと笑う。まったくいくつなんだか。真由は壮太に悟られないよう、さりげなく注意を払いながら、苦笑した。これから帰る子、部活に向かう子に混じりながら、校舎4階から階段を一緒に下っていく。

「よぉ、お二人さん!アッツイねぇ!」

背後からはやしたててきたのは4組の石川浩伸(ひろのぶ)。元気だけが取り柄の野球部の主将だ。試合が近いこともあってか、今日も練習用の、泥染みの目立つユニフォーム姿だ。典型的な沖縄球児、がっしりとした体、肌はよく焼けている。

「冷やかしありがとう、石川君。」わざとらしく澄まして見せれば、

「なんだよ比嘉!お前嶺井とうわさ立ってんだぞ!?少しは自覚しろ!」

「自覚も何も、私達はこれが普通ですからね。いまさら取って騒いだところで、お好きにどうぞ、ですから。」

「相変わらずつれねぇな!って、俺が言いたかったのはそっちじゃない。もうすぐ甲子園の予選があるんだ。お前ら見に来いよ。」

さっきまでとは打って変わった真剣な口調。いつもはおちゃらけた石川も野球のことになればこと真剣だ。真由も思わず顔を引き締める。いつになく真剣な石川の瞳とかち合った。

「わかった。石川は主将だもんね。うん、考えとくよ。いつなの?試合。」

「6月17日に初戦、北谷球場で北谷西と対戦する。」

「そっか、わかった。がんばれよ!」

石川は力強く頷いて、階段を駆け下りていった。いつもと違うユニフォーム姿の石川の後姿を見送りながら、真由と壮太も途中まで下りかけた階段を下りていく。

「ねぇ、聞こうと思ったんだけど、」

「何?」

「どうしてまた、一緒に帰ろうなんて言い出したの?」

壮太は白い肌を少しだけ紅潮させながら、うつむき加減になっている。あ…、とか、う〜ん、とか、言葉を選んでいる。

「何よ、じれったいな。」

「あ、あのね…た、たまには、いいかな?って、思ったんだ。ほんとにただ、それだけ。」

妙につややかな桃色に染まった頬の理由が気になったが、それ以上突っ込むのは野暮かな?と、思い、それ以上は突っ込まないであげることにした。

 学校を出てから、高校に通う際いつも通る、おもろまちの大通りを二人並んで歩いている。車が通りを行きかい、照り付ける沖縄の太陽じとりと睨み付けたら、あまりにまぶしくて、目を細めたら、少しよろけてしまった。途端、壮太の笑い声が聞こえた。

「何?」

「ごめん。やっぱりいつみても面白い人だね、真由って。」

昔からよく言われるのだが、何がどう面白いのか、真由にはてんでわからなかった。軽く首をひねりながら、先を急ぐと、壮太があわてて追いかけてきた。

ひたひたひた、

足を止めて、振り返る。

壮太が足を止め、真由の顔を見たまま笑っている。

ひたひた、

もう一度歩く、

足を止める。

また壮太が足を止めて、真由の顔を見たまま笑っている。

ひたひたひた、

ぴたり。

ひたひたひた、

ぴたり。

まるでこれじゃ、だるまさんがころんだ、じゃないか。真由は小さく壮太のほうを向いた。沖縄の太陽以上にまぶしい笑顔。私達、もう高校生じゃない。受験生じゃない。そう思ったら笑いが吹き出し、抑えようとするも止まらない。

「どうしたん?」

「ごめん、あは、あははっ。なんか、変だよね、私達。」

しばらくすると、壮太も一緒に笑い始めた。おもろまちの大通りに二人の笑い声がひときわ響いていた。ひとしきり笑うと、夏の清々しい風がおもろまちを吹き抜けていった。真由の家はこのおもろまちを右に入って、少し小高い丘を登った中腹にある。壮太の家はそこからさらに50メートルほど上だ。おもろまちの大通りにかかる歩道橋のところで曲がって、狭い坂道を登っていく。

 途端、壮太がバランスを崩しそうになった。そこからの動きは反射に近かった。気がつけば真由は壮太の肩に手を差し出して支えていた。

「大丈夫?」

「うん、ちょっと眩暈がしただけ。」

 あわてて近所の家の軒下を借りて、壮太を座らせた。クラスにいるときから思っていたのだが、その顔は色白というよりは、どこか真っ青で、沖縄の太陽に焦がされた他の男子生徒とは面持ちを大きく変えているのが気になっていた。壮太は何度か深く深呼吸をする。まだ顔には冷や汗が浮かんでいた。

「大丈夫?」

「うん。だいぶ落ち着いてきた。」

「最近また、よく、こうなるの?」

「うん。」

 真由はかすかに目を見開いた。よく眩暈がする。その一言に真由の胸の奥底はざわざわと騒ぎ始めた。

「とにかく家まで送るよ。肩、貸すから。」

「ありがとう。でも、眩暈は治まったから。」

「無理に動くと良くないよ。」

「ごめん…。じゃあ、もう少しだけ休んでいいかな?」

「うん、いいよ。」

真由と壮太は二人軒下に座ったまま、時折行き交う人々や自転車を眺めていた。沖縄の太陽がじりじりと二人の肌を焦がしている。いつも絶好調な沖縄の太陽が今は少し、恨めしくさえ思えた。

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