何時かノ誰かノ物語Ⅱ
銀羽が降り注いでいる。
僕は其を、冥い穴の底から見ている。
噫本当、銀羽は嫌いだ。
皆は神の羽根だと祝福するけれども、僕は些とも然うは思わない。
だって銀羽は命を奪うじゃないか。僕の手をこんな凍えさせ、血塗れになる程斬るのは銀羽の所為だ。
大事な飲み水を凍らせるのも、絶え間ない痛みも、空腹も全て此奴の所為。
其に何より、街を見れば周りの天使達は皆馬鹿みたいに笑って燥ぐんだ。
其の声が、笑顔が、僕は何より嫌いだった。
穴の隙間から見える、皓い翼をはためかせて飛ぶ天使達。
でも僕等に其は赦されていない。銀は堕天の証、だから飛んではいけないと。
其でも、どんなに否定しても如何してか銀羽は・・・綺麗だった。
穴から覗いた外は、輝いていたんだ。其の美しさ丈は認めざるを得なくて。
でも其を自覚すればする程、僕は惨めな気持になった。じゃあ自分は何なのか。
そしてより世界を憎むんだ。こんな風に懐うのは、見えるのは世界を受け入れろと命じられているみたいで。
其の神の作為の様な物を感じて、吐き気がした。
僕等は然う在った丈なのに、全て奪われてこんな冥いマンホールの中で震えている。
其でも、そんな僕にも一つ丈、奪われなかった物があった。
「只今・・・っおっと、出迎えてくれたのかな、有難う。」
一気に視界が明るくなったと思えば、マンホールは開かれ、冷たい凱風がどっと流れ込んで来た。
つい僕は其の寒さに震えてしまう。早く閉めて、と悪態を吐いて奥へ引っ込んだ。
「分かってるって。ほら、パン貰ったから一緒に食べようか。」
然う言い、僕に笑顔を向けるのは唯一の肉親の兄だ。
彼丈は、僕が物心付いた時から傍に居た。
他の家族なんて知らない。堕天したと僕達を捨てたのか、此の寒さに耐えられなかったのか其とも・・・。
兄の背にも又、僕と御揃いの銀の翼が生えている。一瞬だって旻を飛んだ事の無い、形丈の天使の証明。
天冠を取られちゃったけれども、此丈は堕天の証として残されたんだ。まるで見せしめの様に。
噫、いっそ殺してくれれば良かったのに。如何して生かされているんだろう。
こんな惨めな気持にさせて、一体何を御望みか。
銀羽が神の羽根であると言う様に、其の羽根と同じ色の翼は堕ちた証だ。
だから皓い天使は僕らを嘲笑う。穢れた僕等をこんな穴へ追い遣った。
堕天した理由も何も知らない。僕が言葉を覚えるより先に全て終わってしまっていたから。
兄はカチカチに凍ってしまったパンを千切ろうと悪戦苦闘していた。
小さなパンだ、掌に収まる位の。でも僕達にとって此は二日振りの食事だ。
屹度気の良い善良な天使に分けて貰ったんだろう。此で救済、施しを与えたつもりなんだ。
然うだ、奴等の偽善を満たす為に、僕達は居るのかも知れない。
「・・・もう良いよ。其は兄さんのだし、兄さんが食べなよ。」
残念そうに兄は息を付いた。でも何か思い出したのか慌てて服の下を弄る。
「・・・あ、あった、ほら此、見付けたから持って帰ったよ。」
そして取り出したのは・・・新聞紙だった。
たった一面の、日付も古い物だが、でも僕は其丈で目の色を変えてしまう。
俄に元気になった僕に、兄は堪らず笑って其を僕に渡してくれた。
「本当に字、好きだなぁ。パンより喜ばれるなんて・・・。」
「何言ってるんだ。知識は此の上ない宝だよ。」
早速僕は其の一面に目を凝らす。何か情報は・・・。
然う、僕は何より知識が好きだった。此の満たされない探索心を埋めてくれる文字が。
僕は此の世界に対して余りにも小さ過ぎる。だから斯うした本や新聞に頼って少しでも世界を知るんだ。
知らない事を知ると胸が躍る。此丈で僕は幸せだった。
此のマンホールの奥には、今迄兄が集めてくれた本や新聞が山になって積まれている。
彼は全て僕の宝物だ。僕に曦を与えてくれる物。
旻なんか飛べなくて良かった。其丈で僕は満たされたのだから。
「・・・君は賢いし、学校とか行けたらもっと楽しかっただろうけど、な。」
「止めてよ、出来もしない話なんて。」
そんな現実は見たくない。学校は本でしか知らない世界だ。
うっかり兄に何なのか、どんな所なのか尋ねた事があったけど、今では其を凄く後悔している。
知らなきゃあ良かった。僕の空想の中で完結させる可きだったんだ。
だって本当にそんな所があるとか、知らなければこんなに憧れる事も無かったのに。
授業とか教科書とか・・・彼程僕の知識欲を満たせる物は無いだろう。
行きたい、でも無理なのは十分分かっている。此の翼じゃあ何処にも行けないんだ。
新聞紙は少し濡れていて文字が滲んでいた。何とか其処を想像して補って読み進めて行く。
屹度文字が濡れているのも銀雪の所為なのだろう。矢っ張り僕は嫌いだ。
「あ・・・又手、斬れちゃってるな。可哀相に。」
僕の手に付いた絳い線に気付いた兄はそっと両手で包む。
僕よりずっと冷たい手、兄は僕の為に何時も・・・。
「僕も外、出るよ。兄さんだって怪我してるじゃないか。」
「いや、今年の冬は特に銀羽が多いんだ。君が出たら凍えてしまうよ。大丈夫、私が護るから。」
何時も然う、僕の所為で兄が傷付く。
分かっていても僕は兄に何も出来ていない。
此の世界は嫌いだ。銀羽を降らす神様も、見て見ぬ振りする天使も、堕天した自分も。
でも、兄丈は、唯一此の僕の世界で温かくて、大切な物だったんだ。
だから、然う、僕は嫌いと言いつつも、此の世界で満たされてはいたんだと思う。
学校にも行けない、ずっと御中も空いて、寒さと痛みに震えている日々だけど。
でも未だ僕には兄が居た。だから、其以上を求める気にはならなかったんだ。
其でも同時に胸に巣食う影はある。
「・・・あ、やっと千切れた・・・。ほら此、君の分な。」
未だ諦めていなかったらしい、新聞紙から顔を上げると、ずいとパンが差し出されていた。
指の跡が付き、歪な形になってしまっていたけれども、僕には分かる。
多分此は千切ってなんていない。丸の儘のパンだ。大きさが大して変わっていないし。
そしてちらと兄を見遣ると、彼は口をもごもごと動かしていた。
こんな硬いパンをそう直ぐ食べられるとは思えない。少なくとも水でふやかさないと無理だろうに。
「・・・有難う、兄さん。」
折角兄が取って来てくれたのに全部僕が貰ってしまうなんて。
彼に押し付けて返したいけれど、兄なりの演技を見てしまうと何も言えなかった。
其の好意も、優しさも此のパンには込められているみたいで・・・。
然うだ、僕の所為なんだ。
此処最近ずっと考えていた冥い懐いが過る。
僕の所為で兄は傷付く。優しい兄はどんどんぼろぼろになって行く。
いっそ兄も僕を捨ててくれたら良かったのに。然うすれば此のパンだって食べられた。僕の為に新聞なんて探す手間も省けた。
僕が兄の荷物になってしまっているのは明白だ。其なのに兄は文句の一つも言わないで。
其が一体何程僕を絶望させたか。
此の世界は嫌いだ。神様が居ると言うのなら如何して兄を助けないのか。
道も示さず、只銀羽を降らす丈なら、そんな神は・・・要らない。
そんな神を僕は信じない。僕の神様なんかじゃあないのだから。
いっそそんな役立たずな神なら、壊してくれれば良いのにと思う。
僕の願う僕の神様が、殺してくれれば良いのに。そして僕も一緒に壊して貰うんだ。
然うすればほら出来上がり、兄が居る可き世界が屹度出来上がる。
・・・そんな稚拙な妄想を、僕はもう何十、何百と繰り返していた。
勿論こんな天使の拙い願い程度に応える者なんて居ないのだけれども。
「さ、今霄は早目に寝ようか。特に冷えるからね。奥の方にしようか。」
「分かったよ兄さん。・・・有難う。」
「え?・・・如何したんだい一体。・・・私も、今日は早く寝るよ。一緒に寝るから、其食べたら休もう。」
優しく咲う兄の顔は、矢っ張り見ていると安心出来て。
僕の冥い願いなんて奥に押し遣ってくれるのだった。
・・・其の日が、最期になるなんて知らずに。
・・・・・
苦しい、息が、息が出来ない。
躯が凍えて、踠いても些とも楽にならない。
寒い、苦しい辛い、如何して、一体何が、
僕は何も理解出来ず、只我武者羅に踠いた。
・・・躯が動かなくなって、意識が途切れる直前迄、僕は・・・、
「っおい起きろ、目を醒ませっ!」
突然激しく肩を揺さぶられ、僕は目を開けた。
不思議な感覚だった。何だか全ての感覚が遮断されたみたいな。
慌てて息を吸うと目の前には兄が居て、取り敢えず僕は少し丈安心した。
もう息苦しくもない、寒くも痛くもない。一体如何してしまったのか。
夢・・・にしては余りにリアルだった。其に何故か、今の方が夢の中に居る様な、そんな不確かな感覚で。
「兄・・・さん、ぼ、僕は、」
「噫良かった・・・目が醒めたんだな。」
ほっと兄は心底安心したと長く息を付く。
何時もの、僕の知る兄だ。でも其の周りは丸っ切り違っている様で。
少し彼から視線を逸らすと、其処は何処も見た事のない景色だった。
彼のマンホールの中じゃない、でも街でもない様で。
「・・・吃驚するよな。大丈夫、ちゃんと私が教えるから。」
口を開けても言葉が一つも出せなかった僕に向け、兄は教えてくれた。
其は、自分が・・・神に成ったと言う事。
そして此処は其の神々が棲む地なのだと。
僕より先に此処に来た兄は色々と走り回って情報を集めてくれていた。
其の後に急に僕が現れた物だから、急いで助けてくれたらしい。
突拍子もない話に僕は矢っ張り夢かと何度思った事か。
だってまさか、神を願いはしたけれども、自分が其に成るなんて思いもしなかったんだ。
けれども其の話は段々と腑に落ちて、案外すんなりと僕は受け入れられる様になった。
思い返せば分かる。彼の息苦しさは、僕の最期だった訳だ。
兄と話を照らし合わせて分かった。如何やら彼の日、大量の銀羽が降り,其がマンホールや水路に落とされていた。
其が一気に溶けたらしく、洪水が起こった然うだ。
其の所為で僕と兄は溺死してしまったのだ。兄曰く、マンホールから出ようとしても、残っていた銀羽の所為で蓋も上がらなかったのだ。
此は・・・罰なのだろうか。まさか銀羽に殺されるなんて。神様を信じなかった僕への神罰かも知れない。
けれども又斯うして兄と居られるなら、僕は其でも良いと思ったんだ。
死んでしまったけれど、でも斯うして再会出来た。彼の街から出られたんだ。新しい日々が待っている。
僕達は嬉しくて咲い合って、仕舞いには天使みたいに踊り出して只々再会を喜んだ。
でも何時迄も斯うしては居られない。御中も空いて来たし、休める所へ行きたい。
兄は近くに街がある事を教えてくれた。其処でなら楽しく暮らせるだろうと。
何でも迚も治安の良い国なんだって。神も皆優しくて穏やかな所らしいと嬉しそうに兄は語っていた。
そんな咲う兄を見たのは久し振りな気がして、僕も直ぐ其の案に乗った。二柱で其の夢の様な国を目指す事になったのだ。
もう此処では天使の目も気にしなくて良い。だから二柱で初めて旻も飛んだ。
・・・彼の心地を、僕は一生忘れられないだろう。全てが優しくて温かかった。揺籃の様な記憶。
其の時も、変わらず銀羽は降っていたけれども、素直に僕は其を美しいと思えた。
もう寒くはない。寧ろ僕達を歓迎する紙吹雪みたいで。
噫若しかしたら彼の天使達はこんな風に世界を見ていたのかなと、然う思える位僕は晴れやかな気分だった。
飛ぶのがこんなに楽しいだなんて信じられなかった。あっと言う間に兄の言っていた国も見付かったのだ。
入口の大きな門へ降り立った所で、僕達は門番に呼び止められた。
・・・如何やら、此処でも僕達は無条件に迎え入れては貰えない様だった。
天使だと聞いて、初めは歓迎してくれた門番だったけれど、天冠の無い堕天使だと分かると、入国は許可しないと言われたのだ。
僕達は其処ですっかり困ってしまった。中へ入れば、神に成り立ての者は手厚く歓迎され、万事上手く行くと、然う教わっていたからだ。
屹度兄に其を教えてくれた神も、彼が天使だからと信じ込んで話したのだろう。其がまさか、こんな事になるなんて・・・。
でも途方に暮れる僕達の元に、一柱の年老いた皓孔雀の神が声を掛けた。
そして一つの提案を・・・持ち掛けて来たのだ。
其の神は、呪いの類に精通している名のある神だった。
だから、望むなら其の堕天の穢れ自体を晴らす事は出来ないが、他者へ移す事が出来ると言ったのだ。
片翼を禊として落とせば、穢れを全て其処へ移し、同胞である天使にそっくり其の儘重ねるのだと。
つまり其は・・・僕か兄、何方かしか中に入れないと言う事で。
何方かに穢れを全て押し付けて天使に成るのだと、然う神は言った。
そんなの、受け入れられる訳がない。
僕は、兄が居れば良かった。だから、其の繋がりを失うのなら意味は無かった。
何方かが天使に成ろうと、別れる事に変わりないんじゃあ僕は、
僕は、戻ろうと兄に声を掛けようとした。でも、でも其処で・・・、
兄が必死になって片翼を千斬ろうとしているのが目に入った。
一瞬、其の意味が理解出来なかった。一体兄は何をしようとしているのかと。
如何して背に手を回し、翼をそんなに引っ張っているのかと。
痛いに決まっている。そんな事をすれば骨が折れてしまう。其でも、
今迄見た事がない位必死な顔で、兄は強引に翼を引っ張った。
そして終には血を噴き出させて兄の翼は引き千斬られた。
銀の翼の代わりに血が溢れて、地に落ちた翼は酷く汚れて見えて。
・・・噫、其の翼が如何仕様もなく僕の姿と重なった気がした。
呆然と一言も発さず固まる僕に、やっと兄も気付いた様だった。
途端何とも言えない苦しそうな顔をして、口を戦慄かせて、でも言葉は出なくて。
「・・・決まった様じゃの。」
神が一つ祝詞を唱えると、忽ち彼の残った翼は純皓に変わり、輝く陽から一雫零れたと思えば天冠になって兄の頭上で輝いた。
代わりに兄の落とした翼は黝ずみ、羽根が散って僕を取り囲む。僕の目はすっかり其の灰色が焼き付いてしまい、羽根が朽ちても景色は色を失った儘だった。
降る銀羽もまるで埃の様で、僕は何度も目を擦った。でも、もう目が元に戻る事は無かった。
僕が然うしている間にも、兄は足を進めていた。僕から一歩ずつ、離れて行っていた。
まるで曦に誘われる様に門を潜る。僕は只、見ている事しか出来なくて。
兄は・・・僕を置いて行ってしまった。
一柱、彼の温かな世界へ、楽園へと。
・・・僕を犠牲にして。
其の事実の方が、余っ程受け入れるのが大変だった。理解出来なくて僕は・・・気付けば一柱、涕いていたんだ。
でも、でも此は僕が望んだ結果でもあるじゃないか。
僕は、願った筈だ。兄が自分を捨てれば、もっと楽に生きられるのにと。
だったら此の結果は、望む可き事の筈だ。
僕が穢れを背負って、兄が天使に成れたのなら、屹度此から兄は幸せな日々を送れる。
・・・僕を残して。
違う、今迄兄は僕の為に沢山犠牲にして来た。僕は何も彼にしてやれなかったじゃないか。其でも、彼の役に立てたなら、
・・・一緒に居られると思ったのに。
駄目だ。どんなに頭で訴えたって唱えたって、どす黔い物が沸き上がって。
兄は、僕なんて要らなかったんだ。屹度ずっと見捨てたかったんだ。あんな袋小路の天使の街だったから出来なかった丈で。
僕は気付きつつも無視し続けていた声を聞いてしまう。
気付きたくなかった、でも僕は先、気付いてしまっていたのだから。
僕が死んだとき、僕が溺れた時、
僕は彼の日、奥の方で寝たからマンホールから随分離れていた。だから何の抵抗も出来ずに死んだ。
でも兄は・・・マンホールの蓋が開けられなくて溺死したと言ったのだ。
つまり其は、一緒に寝ていた筈の僕を置いて一人で逃げようとしたからで。
一人で助かろうとして、でも逃げ切れずに一緒に神に成った丈だったんだ。
もう此の目に曦は見えない。唯一の曦だった兄はもういない。
いや、抑曦ですらなかったのだ。偽りの曦を信じていた丈。僕の見ていた兄は幻想だったんだ。
僕の兄は、死んでしまったのだ。僕を置いて、身勝手に。
噫、然う受け入れる方が何程楽か、息が吸えるか。
然うだ。僕は捨てられたんだ。独りになったんだ。
此処に来てやっと僕は自分が堕天した理由が分かった。此の心だったんだ。
屹度綺麗な天使なら兄を祝福出来たのに、今の僕は只・・・妬ましい。
僕を捨てた兄を、赦せなくて。
こんな目に御似合いの心だ。だから僕は天使には成れない。
好い加減に涕く僕を煩わしく思ったのか、門番は荒々しく僕を追い払った。
もう行く当てもない、何も持っていない僕は只彷徨う丈だ。
噫でもせめて、此の身に相応しい所へ落ち付こうか。兄が曦を求めたなら、僕は闇に沈もう。
然うすればもう彼の曦を見る事も無いのだから。
すっかり涙が乾き切った堕天使は独り、歩き続けるのだった。
此は本来暴かれる事の無かったメモリー。
でも君が見付けたと言う事は、もう其の域迄踏み込んでしまっているね。
じゃあ僕の実験は今の所大成功と言う訳だ。取り敢えず此処迄順調、喜ばしいね。
そして、此処迄見てくれたなら、僕の墓場迄持って行っていた誰にも知られたくなかった記憶を、態々掘り起こして暴いたのなら。
其の意志は・・・継いでくれるよね?
ねぇ、僕丈の神様、どうか此の世界を、




