脳内寄生
どこまでも続く暗闇の中に、彼女は一人佇んでいた。今なら触れられるのではないかと手を伸ばすが、伸ばすほどに遠くなっていく。彼女はこっちを見つめ、呟いた。
「私はずっと前から貴方の傍にいるかもしれないし、そうでないかもしれないわ。」
僕はきょとんとする。そして彼女の目に僕が映っていることに、恥ずかしくなる。彼女はそのまま暗闇に姿を消した。
「おはよう。」
彼女は僕に挨拶する。俯きながら、おはようと返す。僕らが言葉を交わすのは、この朝の挨拶のみだ。僕らは特別付き合っているわけでも、両思いでもない。ただ僕が片思いしているだけだ。チャイムが鳴り、席につく。僕は彼女の席を見つめる。振り向きもしない彼女。こうしてまた同じような一日が始まる。溜め息をつきながら、黒板の上に掛けてある時計に目をやる。僕を取り巻く時間というものは、僕なんか知らん顔して進んでゆく。それなのに彼らの顔は、自信に満ち溢れている。時間なんて止まればいい。ずっとずっと、彼女との夢を見ていたい。
「貴方って一途なのね」
暗闇の中で彼女は僕に呟く。いつも彼女は一言しか喋らない。僕が返事をしようとしても、言葉が出ないからだ。不敵な笑みを浮かべ、彼女は消える。僕はまた、彼女に触れられなかった。
淡々と毎日が過ぎてゆく。彼女との毎朝のやりとりも、時計の針も、同じことの繰り返しだ。現実なんてつまらない。夢の中なら、彼女は笑ってくれる。僕の初めての恋がこんなに苦しいなんて…。下校中、線路を見て僕はあることを思いつく。彼女に告白する、そして振られたら線路に飛び込む。名案だった。こんな現実ともおさらば出来るし、あわよくば彼女と付き合えるかもしれない。僕の目の前にある線路は、どこか寂しそうだったが、僕の門出を応援してくれているようでもあった。
翌朝、僕は彼女に電話を掛けた。
「僕は命を絶つ。もし君が付き合ってくれないのなら。」
「ごめんなさい。殺すつもりはないけれど、それはできないわ。」
電話越しの声は驚くほど落ち着いていた。そして僕も、こうなることは分かっていた。その時を待っていたかのように、通過電車がやって来る。僕は飛び込んだ。
目を覚ますとそこは、自宅のベッドの上だった。僕は混乱する。死んだはずではなかったのか。そして死に損ないにしては無傷だ。それでは夢だったのか。そう思い、ほっとする。するとどこからともなく、彼女の声がする。
「やっと目覚めたのね。」
その声は、僕の頭の中から囁かれている。僕はまた混乱する。
「私が夢の中で言ったこと、覚えてる?」
恐らくそれは、傍にいるかもしれない云々のことだろう。僕は覚えているよ、と返事をする。今まで出てこなかった言葉が、彼女に向かって放たれていく。
「もう夢に逃げないで、目を覚まして。」
僕は現実が嫌になり、永遠に眠り続けることを選んだことを思い出した。ずっと、僕は眠っていたのだ。それじゃあ、僕が恋してた彼女は?彼女はどこにいるのだろう。夢の舞台は学校だった。でも、現実に彼女がいた覚えはない。
「私は貴方が大好きだった。いつも遠くから見つめてた。でも貴方は振り向いてくれなかった。私は告白もした。だけど結果は勿論ダメだったわ。そして私は貴方が夢でしたように、生きることを諦めたの。」
彼女は僕にそう囁いた。つまり、彼女は僕の近くにいたけれど、もうこの世には存在しない。僕は彼女に会えない。嫌だ、そんなの嫌だ。僕は悶絶する。彼女に会いたい。
「ねえ、どうして今こうして貴方と会話できているのかわかる?」
僕にはわからない。きっと君は幽霊なんだと僕は呟く。
「幽霊なんかじゃないわ。私はもう既に、貴方の一部なのよ。」
僕は涙を流した。彼女が命を絶ったあと、僕の脳内に魂を寄生させ、僕が彼女のことを愛するよう、夢を操作していたとも知らずに、僕は喜びの涙を流した。