ネームコンプレックス
——ねえ、覚えてる? 名前は人を縛るんだよ。
彼女に出会ってから何年が経っただろう。
そう言う彼女は、僕にはまだ眩しく見えた。
一宮麗輝の第一声を、僕は未だに覚えている。
「言霊ってあるじゃない」
それは唐突で、自分に向けられた言葉だということに最初は気づけなかった。
だからぎょっとした。図らずも無視した形になった僕の前に回り込んだ、彼女の姿に。
「それは名前だって同じだと思うの」
黒髪の美少女、彼女を端的に表した言葉はそれだろう。とても便利な六文字だ。
だが彼女は『クラスで一番可愛い子』ではなくて、全国レベルだった。硬直した僕に非はない。
「ねえ、英雄くん?」
名前に恥じない生き様を見せる彼女と完全に名前負けした僕。
彼女の笑みは酷くいやらしく、だというのに否定しようがないまでに綺麗だった。
僕はそんな彼女に見惚れ、
「突然なんなんだよ」
見惚れてしまった自分と彼女を嫌悪した。
時々廊下ですれ違うぐらいの関係だった。おそらく、認識していたのは僕の方だけだったはず。彼女に目線を向けないのは誰にとっても至難の業だろう。
高嶺の花なんていう次元じゃない。僕から見れば画面の向こうの存在で、二次元に等しい。持とうにも遠すぎて興味は湧かなかった。
好奇心を剥き出しにして僕に近づいてくるだなんて想定外もいいところだ。
どうせ名簿か何かで、僕の名前を見たとかだろうけど。
一世代ほどずれた名を、呼ばれるのは嫌だった。
一世代ほどずれた名を、密かに僕は好いていた。
ヒデオという音は、どこか古くさい。キラキラネーム全盛期では無いにしろ、同じ音の名前は父の世代にばかり見つかる。
だが僕には当たり前だった。生まれた時から呼ばれているのだから当たり前にならないわけが無い。
物心がついた頃から名前の由来を聞かされていた故の刷り込みの結果、手に入れたのは思春期男子に特有の願いだ。
俗に言う、中二病だったのかもしれない。ならば僕は年齢=中二病歴なのだろう。
彼女の言葉を借りるのは癪だけど、言霊とかいうやつにすべてを責任転換しよう。
幸か不幸か、邪気眼に目覚めたり左手の封印が解かれたりはしなかったけど。
ただ自然に、現実の日常の世界で、いつかヒーローに成れると。
何の疑問も無く無意識のうちに信じていた。
「英雄なんて大層な名前を持った君は、何を考えて生きているんだろうって思って」
「残念、俺は特に何も考えてない。 あとその呼び方やめて」
一人称は周りに合わせてもう大分前から『俺』だったが、相変わらず自分の中では『僕』のまま。
一宮麗輝は自信に満ちあふれていた。
自分の思考に誇りを抱いていた。
彼女の信じる美しさを作り上げることに躊躇が無かった。
肩の下まで真っ直ぐに延ばした黒髪も、清楚さと活発さの境の長さのスカートも。
立ち振る舞い、言動、表情、全てが意識の下だった。
「どうしてそこまで拘るんだ」
出会い方は良とは言えず、お互いに関わることにメリットは見つからない。
しかし彼女との縁は切れることがなかった。切ろうとはしなかった。
それはきっと、僕が諦めた後だったから。
「麗しく、輝くように。 そうであることがわたしで在る前提条件だから」
だから、劇物のようなナルシズムすら僕にとってはただ眩しい。
無意識に育った英雄願望に、僕は苦しめられること無く過ごしてきた。
なにもファンタジーを求めていたわけじゃない。子供ながらに不可能だと分かっていたし、空想に頼らずとも自尊心を満たすぐらいの条件は揃っていた。
勉強も運動も容姿も普通に生きていく分には何不自由無く、むしろ周りより少し恵まれているほうだったのだから。
自分の限界値を知らない頃は何だって出来ると考える。そこまで思い上がっていなかったかもしれないけど、少なくともいつかは自分の望むことが出来るようになると思っていた。
小テストでいい点を、部活でスタメンを。僕の英雄願望はちっぽけだ。
ただそれすらも瓦解する。
大事な試合だった。点数は僅差で、どちらが勝ってもおかしくなかった。だが僅かにこちら側の方が低かった。
その試合で、僕は小さなミスをした。全体としては小さくても、僕の中では大きな失態。
その後、どちらにも決定打は無くて時間が決着を決めた。
もしかしたら僕が失敗しなければ、勝てたのかもしれない。
それだけ。
誰も責めはしなかった。悔しがってはいたものの、予想よりもいい順位をとれたことを喜んですらいた。
僕だけがいつまでも呆然としていた。
切羽詰まった状況。
後戻りは出来ない。
自分の行動で未来が決まる。
逆転を賭けた一手に繋ぐ。
物語に例えれば、クライマックスに他ならなかった。
それは、出来て当たり前のこと。英雄以前の問題。
でも、あの一瞬が一番、人生の中で英雄に近かった。
僕は、英雄に近づいたあの一瞬に失敗した。
あの高揚を興奮を覚えている。直後の崩れ落ちる感覚も。
そこまで、部活に入れ込んでいたわけじゃない。人生を賭けていたわけじゃない。ただ人並みに頑張っただけ。
人は些細なことでミスをする。
何様だ、主人公にでもなったつもりか、自問自答した。
大事な時に絶対に成功できるのは、それこそヒーローだけだろう。
その時に、僕は十四年目にして初めて自分の願望に気付いたのだ。
叶わなかったことで、気付けたのだ。
こんなことを考えてた自分が、こんなことで傷付く自分が恥ずかしいと思った。
響いたのは失敗よりもずっと大きな羞恥。
ちっぽけな英雄願望はちっぽけな理由で破綻する。
「一宮は本当に自分大好きだな……」
ことあるごとに僕は呆れた。
「うん、好きだよ?」
その度に、彼女は同じ返答をする。
「だって嫌うよりはよっぽど楽しいじゃん」
「程度がある」
「それは負け惜しみ」
彼女はにやりと笑う。泣き黒子が特徴的だった。
「わたしが部屋の隅に膝を抱えて縮こまりながら震えていたら、もうギャグでしょ?」
クラスの中心で、人好きのする笑顔で、誰かを楽しませながら笑っている。
それが一宮麗輝の在り方だ。
「本当お前、何がしたいんだよ……」
「そんなに警戒しないでってば。 私はただ、北見君と友達になりたいってだけだから。 陳腐だけどねー」
彼女は、僕の前でだけ性悪で皮肉屋で自己愛の塊の姿を見せた。
計算を撤去した笑みは確かにいやらしかったけど、子供っぽく輝いていたのだ。
僕は目を細める。
僕は今も、彼女の隣にいる。
年を重ねた。お互い、変わった。
僕は彼女を直視できない。
「覚えているよ、俺も一宮も結構名前に引きずられていたから」
「北見君、結局全然ヒーローじゃなかったじゃない」
黙り込む。
「やだ、黙んないでってば。 わたしが沈黙に弱いの知ってるでしょ?」
彼女の声はあの頃と比べたら、大人しい。
「何年経っても、君は変わらないんだね」
「一宮だって変わらないよ」
「ダウト」
彼女が笑う。一宮麗輝としての笑みを作ろうとしたのだろう。いやらしさは無かった。
「だいたい一宮と関わっていた頃には、もう英雄願望とか無かったし」
「ちっ。 時機を逃したのかぁ。 諦めないでよ軟弱ものめー」
僕は謝るべきだろうか。
「あーあ、わたしはヒーローぶって坂を転げ落ちて自爆する君が見たかったのに」
性悪な精神は未だに健在、と。
僕は天井を見た。
目に、痛い。
不思議なことに英雄願望を無くした後の方が楽だった。
きっと、『自分はこうあるべき』だなんてどこかで考えていたのだろう。彼女と大差なかった。
理想像には届かないことを知り、届かせる気もないと気付き、僕はシンプルになったのだろう。
子供っぽいねがいごとを自覚して尚抱えることは出来なかったから。
背伸びをしなくなった。自分に出来る範囲で、努力した。万能ではないことを受け入れた。
自覚して、失って、僕はかえって自然体になった。
最初から器じゃなかったのだ。所詮自己暗示によって作られた願望だ。
だから彼女が見てきたのは、ただの北見英雄の姿でしかない。
ヒーローぶって自爆する前に、不発弾として処分されたのは良かったのかもしれない。
認めるのは悔しいけど、彼女と過ごす日々は楽しかった。
自らを形作ることに余念がない彼女は、自身の目ですべてを見る。捻くれていたのは言うまでもない。
言動のいちいちが、僕には新しい。
僕だけが知る一面だ。
そのことはどこか誇らしい。しかし大きな謎だった。
「ああ、本当に退屈過ぎてどうにかなりそう」
彼女が細くため息をつく。
「大人しくしてろよ」
本当は、今こうして僕に会っているのも良くないのではないかと危惧している。
僕と彼女は似すぎているから。
雁字搦めだった願いを羞恥に負けて放り出した彼女が僕で、自ら呪縛を受け入れて手を届かせてしまった僕が彼女だ。
分かっていた。
なんで僕たちが、いつまでもずるずるとこんな付き合いを続けているのかなんて。
「不思議だよね」
ぽつりと彼女が零す。
「わたし、まだ君とは普通に話せてる」
僕は言葉を返さない。
自分の理想を手に入れた一宮麗輝が、眩しかった。
彼女は幼い頃から自分の願いを知っていたのだろう。だからあんなにも迷わずにいられたのだと思う。
僕と彼女は似ている。だが絶対的に違うのだ。
何よりも、彼女には素質があったから。努力がそのまま成果として返ってきた。
最後まで気付けずに、故に何の努力もしてこなかった僕の願望は単なる憧れだ。
雲の上のものに期待して、勝手に自分に失望した唯の馬鹿。
もう羨ましくはないけれど、手を届かせた彼女のことを僕は純粋に尊敬する。どんなに悪趣味であっても。
その自己愛が歪んでいたとしても。
彼女と親しいと言えるようになってから、良く休日に連れ回されるようになった。
始めは一方的な好奇心で始まった友人関係、良くそこまで発展したものだ。
「一宮がゲーセンなんて、麗しくないんじゃないの」
「んー、いいんじゃない? 少なくともわたしは楽しいし」
令嬢のような雰囲気は、残念ながら一般人のカテゴリに含まれる彼女がいる世界にて、どうしても薄暗くなってしまう。
『麗』を外見で、『輝』を行動で。
彼女はそうして主人公格で居続けた。
僕が属するグループも彼女に近い方だったから、クラスが同じになってからは毎日のように一宮麗輝を見るようになっていた。
そして二人きりの時は、彼女の制約が緩いことを実感する。
大体いやらしさしかなかった。好印象ばかりを植え付ける麗輝らしくなかった。
彼女は僕の前でだけ、一宮麗輝として不完全だった。
「自分が好きっていうのは、ちょっと違うかも」
ふらりと店に入り込み、鏡の前で一着のワンピースを身体に当てる。
自分にどんな服が似合うのか、よく分かっていた。
「わたしは多分、わたしじゃなくて一宮麗輝が好きなんだと思う」
夏限定のポニーテール。
彼女のうなじはぞっとするほど白い。
「麗輝という誰かを着飾ってあげるのが楽しいの」
くるりと振り返って、笑うのだ。
僕は何度でも見とれてしまう。
計算の入らない、素の笑顔の方が好きだった。
「変、かな」
「うん」
「そっかぁ」
納得したような、しきれないような表情。安っぽく、麗輝らしかぬ顔。
「でもわたし、凄くしあわせなの」
彼女は一宮麗輝であることを、何よりも大切に思っていた。
僕は、どうなのだろう。
彼女と僕は鏡だ。
視線を合わせることも無く同じ道を進むことがなかったとしても、きっと分類上は近い人間だから。
彼女の傲慢さに不快感どころか共感すら覚えていた。
思えばまだ、出会ってから片手で数えられるほどの年数しか経ってないというのに、ずっと昔から見てきた気がするのだ。
「……ねえ」
彼女が掠れた声を、絞り出す。
僕は早々に全てを諦めた。
彼女は早々に全てを手に入れた。
嫉妬は、しなかった。
「なんで」
逃げることが出来た僕と突き通した彼女。
どちらの抱えるものが重いのかなんて考えるまでもない。
「どうしてわたしは、まだ生きてるのかな」
一度手に入れたものを失うのは、どれだけの空白を生み出すのだろう。
そのとき彼女はそんな顔をするのだろう。
どうして僕が、まだそんなことを考えているのか分からない。
彼女を、ただじっと見つめる。窓にうっすらと映った姿を。
彼女は外の方を向いていた。
ガラスに映ったそれぞれと顔を合わせる。
灰色だ。
憎らしいまでに見事な曇天だった。
もう二度と、彼女の泣き黒子を目にすることは無い。
「君が来る前は、絶対に鏡なんて見なかった」
彼女が窓に手を伸ばす。
「だからわたしは、君が来るまで麗輝だった。 ううん、まだ麗輝のつもりでいた」
僕の前に訪れた友人は皆、明るかった、元気そうだった、変わらなかった、と同じように言った。
本人すらも騙していたのだろう。
「まいっちゃったなぁ。 普通に入ってきて、普通に話して、普通にそこにいるんだもん。 びっくりするほど変わってないんだもん」
僅かに残った鎧はもう溶けて消えてしまった。
一宮麗輝は死んでいた。ただ、それらしい何かを演じただけ。
彼女の指は自分の映ったガラスに食い込まんとしていた。それは錯覚で、実際はただ指先が白くなるに留まっている。
僕は何も言えない。言わない。正解の台詞は存在しない。
「……酷い顔」
わらう。一片の綺麗さもいやらしさも無い。ただ表情筋を動かしただけの味気ない笑み。
「不思議だね。 君の前じゃ、うまくいかないの」
僕の方を振り返る。彼女の左目が初めて僕を直視する。
何故病室は白いのだろう。こんな部屋では、彼女はきっと掻き消えてしまう。
今にも雨が降りそうな外で、薄暗い風が音を鳴らした。
「一宮麗輝はわたしでした」
とても白い。
白の下はきっと——
「わたしは一宮麗輝になれなくなりました」
——とても醜い。
「ここで問題です」
彼女の顔の半分が、にやりと笑う。
「——麗輝でないわたしは何?」
逃れられない。
彼女は一宮麗輝を失った。
しかし人は、これから先も一宮麗輝と呼ぶのだろう。
彼女と同一であることを求めるのだろう。
それを、彼女のプライドが許さない。今の自分が、これからの自分が、一宮麗輝となることを許せない。
十数年分の執念が、彼女を認めない。
おぼつかない足取りで、ふらふらと僕の方へと向かう。
大きく見開かれた瞳。やつれた頬。震える声。
細くなった左手が僕を捕まえた。
「ねえ、お願い……教えてよ! わたしは、もう二度と麗輝に戻れないわたしは……これから先どうやって生きていけばいいの?」
それは彼女の全てだった。
自身で、全てにしてしまうことを選んだ。
縛り続ける。
美しいまま悲劇の結末を迎えれば一宮麗輝として正しくあれたのだろう。
「……ねぇ、お願い……誰か嘘だと言ってよ……」
今にも火の消えそうな蝋燭のような声。
何もかもが霞んで滲んでいた。
そこにあるのは矮小な一人の女の子の姿。
僕はただ、何者でもなくなった彼女の嗚咽を聞いていた。
彼女の泣き顔が半分しかないことを心底残念に思ったけど、きっと見られたくはないだろうから目を閉じる。
ああ、こんな風に彼女は泣くのか。
今でも僕には眩しいのに。
一宮麗輝ではなくて、ただの君にまた会えたことを喜んでいると伝える日は来なくていい。
彼女にかける言葉の解答だけを知りたい。
どうしようもない僕はまだ、『君の英雄になれるだろうか』なんて性懲りも無く考えてしまうのだから。
縛られ続ける。