国民Fの回顧録
それは、うららかな春のとある日曜日に起こった。
その日はとても良い天気だったので、私は気まぐれに近所の公園の桜並木を散歩しようと、鍵と携帯だけを持って自身の住処である小さなアパートを後にした。
いや……後にする、はずだった。
実際、ささやかで当たり前のその行為は叶わなかったのだから、全く正しい表現じゃあない。
アパート敷地内から足を1歩踏み出そうとしたところで、唐突に真下に開いた真っ黒な穴としか言いようがない不思議な何かに吸い込まれてしまったのだから。
いつの間にか失っていた意識を取り戻したのは、それからどれだけの時間が経った頃なのだろうか。
どよめきのような歓声のような、そんな騒音に刺激されて、私はゆっくりと目を覚ました。
未だにはっきりと覚醒しない思考を置いて音のする方向へと首を回せば、そこには子供のように興奮しはしゃぎまわっている異国の老人たちがいた。
赤茶色をしたレンガ造りの室内に、大量に設置されたロウソク。
その炎に照らされる彼らはみな、どこかファンタジーじみた藍色のローブを揃いで纏っている。
また、当然かもしれないが、彼らの間で飛び交う言葉の一切が私には理解できないものだった。
あまりにも現実離れした光景に、あぁ夢かと勝手に納得した私は、次いで誘いくる眠気に逆らわず再び瞼を落とす。
けれど、そこで意識を閉ざすことはできなかった。
突如、老人らのいた方向から恐ろしいほどの爆音と暴風が轟き、私は寝かされていたらしい台の上から勢いよく転げ落ちてしまった。
後頭部や背や臀部をしたたかに打ち付けてしまったのだから、もはや眠気などが残る余地はない。
反射的に閉じていた目を今度は自分の意思で開き、痛みを少しでもマシにしようと俯せの体勢をとろうとして、その途中飛び込んできた視界情報に固まった。
舞い上がる土煙。響く怒声と唸る地響き。大量の硬質な足音と倒れた燭台のぶつかり合う音が耳に痛い。
どこからか増殖し続ける厳つい鎧を身につけた屈強な男たち。
と、彼らに力づくで取り押さえられていく老人ら。
そんな老人たちの反応はとにかく様々で、怒る者、脅える者、悲しむ者、無抵抗で大人しい者、笑う者などなど統一性が無く、その異様さに私は漠然とした恐怖感を覚えた。
人は思いもよらない出来事に遭遇したとき思考を停止させることがあるというが、この時の自分がまさにその状態に陥っていたのではないかと思う。
本当に、自らの置かれた状況を冷静に分析するなど以ての外で、ただただ身を竦ませることしか出来なかった。
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ふと目を開く。
覚めたてで回らぬ脳がゆっくりと動き始め、ようやく意識を落とす直前の記憶を浮かばせれば、私の上半身は考えるよりも前に起き上っていた。
慌てて周囲を見渡せば、まず上品かつ高そうな西洋系アンティーク家具の数々が目に入り、次いで多様なサイズの絵画やタペストリーが飾られている壁が、さらに床には繊細な模様の刻まれた絨毯が敷き詰められており、とにかく高そうかつ全く覚えのない場所であるということを理解した。
少なく見積もっても20畳以上はあろうかという無駄に広いこの部屋の中心には、今私が尻の下に敷いているキングかクイーンかという巨大サイズの天蓋付ベッドが鎮座している。
そのベッドのすぐ傍ら。右手側に設置されている小さなチェストの上には、水と思わしき透明の液体の入ったグラスと可愛らしいハンドベルが置かれていた。
そこからさらに広範囲に万遍なく視線を巡らし、室内に存在する生物は自分だけであることを確認して、ほんの少しだけ安堵する。
その時、窓が開いていたのか白く繊細なレースのカーテンが視界の端をヒラヒラとかすめた。
それに導かれるようにして私はベッドから降り、慎重に慎重に歩を進める。
服装も靴も携帯も鍵も、何もかもがそのままであったのだとようやく気が付いたのはこの時だった。
が、それはそれ。
とにかく、無事にたどり着いた先でシャッと開いたレースの向こう。
はたしてそこには、空想の世界でしか見たことの無いような恐ろしく幻想的な風景が広がっていた。
優雅に空を舞うペガサスの群れ、厚い城壁に囲まれた荘厳な古城、地平の先に広がる薄紫の森。
窓の外から肌を撫でてくる風は少し冷たく、春のそれというよりは冬を間近に控えた秋の色が強い。
ふ、はは……あはは……何これ、何だこれ、何なんだこれ。一体何だっていうんだ。
…………冗談じゃない。冗談じゃあない。
世界中のどこを探したって、こんな場所の存在は有り得ない。
大画面に映した映像に合わせて機械で風を送っているだけかもという思考の悪あがきも、身を乗り出して360度全方位にその風景が広がっていることを視認したことで否定された。
むしろ、自分のいるこの建物がかなり大きな西洋屋敷で、更にこの部屋が3階もしくは4階で、もし出入り口のドアが閉ざされているのなら普通に軟禁状態にあるなどという、あまり知りたくはなかった現状を理解させられた。
いつの間にかガタガタと震えていた身体を、自らの両腕で力いっぱい抱きしめる。
けして寒さからくるものではない、もっと身体の奥底から滲み出る別の何かが私を揺らし続けていた。
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コンコンと両開きの大きな扉からノックらしき音がしたかと思うと、そこから間もなく3人の異人が姿を現した。
1人は老人を捕らえた男たちと意匠の似た、しかし数段派手な鎧を纏う筋肉質な40才程の男性。
もう1人はその色が深緑であることから本物のそれとは違うと分かるが修道服らしき衣装を着た30代半ば辺りの女性。
そして、最後の1人はロココ調のジェストコールやジレなど中世貴族風の衣に身を包んだ20代後半と思わしき男性。
とりあえず、上から順にナイト、シスター、ロココで即決した。
私が大窓の前にいるのを見て、ロココがナイトに何事か話しかけている。
やはり言葉は分かりそうにない。
シスターは部屋に入るなり静々と隅を移動し、移動した先の壁と同化するように存在感を消し控えの姿勢を取った。
もしかすると、メイドさんか何かなのだろうか。
彼女に気を取られていると、急にナイトが怒鳴り出して反射的にビクッと身体が跳ねてしまった。
見れば、ナイトはロココへと険しい顔を向け、荒げたままの声で何事か言い続けている。
けれどそれもそう長くは続かず、表情を冷たく変えたロココが小さく何かを呟けば、ナイトはザッと片膝をつき左腕を胸に当て頭を垂れ、苦々しく一言を発して以後黙り込む。
どうやらロココはナイトよりもかなり偉い立場の人間らしい。
跪くナイトを残して、ロココはどこか緊張したような表情を向けゆっくりと近づいてきた。
もう1歩か2歩進まれたら後ずさろうかなと思っていた、そんな絶妙な位置で足を止めるロココ。
彼の服装が服装だけに、手を取って甲に口づけでもされたらと警戒していたのだが、どうやら杞憂に終わったようだ。
安心した。
「単刀直入に申し訳ありません、まずは1つだけ確認よろしいでしょうか。」
「え。」
一瞬、気が付かなかった。
それほどまでに彼が紡いだ言葉は自然すぎた。
「えっ、待っ、今……。」
動揺する心がまともにしゃべることを許してくれない。
だって、彼が……ロココが……まさかの母国語を、それも流暢と言えるレベルの日本語を口にしたのだ。
「あぁ……あぁ、やっぱりだ。」
そう呟いて、自らの口元を片手でおさえるロココ。
途端。彼は感極まったように頬に一筋の涙を滑らせ、そして笑った。
「すみません。非常に不謹慎ですが、私はいま嬉しくて仕方がない。」
意味は分かるのに、意味が分からなかった。
唐突なロココの異変にナイトは慌てて立ち上がろうとしたが、彼はそれを手で制して深呼吸を繰り返すことで己を落ち着かせる。
本当は日本語を操りかつ何らかの情報を持っていそうなロココにすぐにでも詰め寄りたかったのだけれど、私の防衛本能がその感情に否を唱えていたので、彼の方から来るであろうアプローチを大人しく待っていた。
そして、私の望んだその時はすぐに訪れる。
「んっ、え~、失礼いたしました。私はベハイン。
ベハイニール・オック・リェンツェ・ゾラティッド・カレイーラー5世と申します。
ぶしつけな質問でまことに申し訳ございませんが、貴女は地球の日本を出身とする女性ということで間違いございませんか?」
「え…………はぁ。」
「ありがとうございます。
心中における混乱の程は重々お察しいたしますが、こちらの都合上長く時間を割くことが難しく、まずは端的な説明にてご容赦ください。」
異人が日本語ペラペラというものすごい違和感はこの際置いておいて、このあと彼の口から語られた事実を纏めると「マジキチ研究者たちが禁じられていたはずの実験に手を出して挙句成功しちゃったみたいテヘペロ☆」ということらしかった。
何でも私の暮らしていた世界は彼らの住まう世界よりも概念的に高い位置に存在していて、その2つの世界の間にある壁のようなものに穴を開けることで、私の世界にある何かが落ちて来るかもワクワクといった色んな意味でとんでもない実験なのだそうだ。
とりあえず、穴は世界の修復力とやらで放っておいたらすぐに閉じてしまうらしい。
話を聞いていて何となく予想はしていたけれど、私が元の世界に帰ることはほぼ不可能ということだった。
そもそも時間の流れも違っているから帰ったところですでに居場所もないだろうと言われた。
ちなみにロココは研究者たちの住むこの国で現在警備のトップを務めているらしく、自身の事を『責任者』と、そして私のことを『拉致被害者』と認識していると伝えられた。
研究者たちを止められなかった責任者ロココは、私こと拉致被害者に対し補償とかあと今後の保障とかしてくれるつもりのようだ。
でも、実際に私が召喚?された場面を見たワケでもないのになんで異世界人だと確信しているのか。
さらに言うなら、どうして彼は日本語がこれほどまでに堪能なのか。
禁じられている実験について、なぜそこまで詳しいのか。
脳裏をよぎる疑問の数々は、次の瞬間完膚なきまでに砕け散った。
「そして、私の……いや、俺の失われし過去の名をフミヤ。
岡部フミヤという。
……生まれ変わり、と言えば分り易いかな。」
「やだ電波系!」
「そう俺は選ばれし者…って違うわ!!」
思わず1歩後ずされば、見慣れた動作付きでノリツッコミを返すロココ。
脊髄反射に近い速度で繰り出されたそれを見れば、なるほど彼は嘘をついてはいないのだろうと信じることができた。
直後、私達2人の奇行に再びナイトが起動しそうになったけれど、うんざりした表情のロココが現地語で諌めて事なきを得ていた。
「……まぁ、異世界に転生を果たした上で前世の記憶まである人間なんて眉唾だろうけどさ。
話も進まなくなるし、できれば信じて欲しいかな。」
フミヤと名乗った異人は、それまでの丁寧な言葉遣いや姿勢を崩してため息まじりに言う。
表情の中に諦めの色が混じっているのは、彼自身それを認めるのに相当の時間を要したからなのだろうか。
私は真っ直ぐにロココの瞳を捕らえ、ゆっくりと頷いて見せた。
「大丈夫。あんなノリツッコミを見せられては疑いようもないですから。」
「ノリツッコミで分かる日本人の見分け方!?
なにそれ斬新!」
どうやら、前世の彼はかなりのお調子者だったようだ。
少し前までの慇懃な対応と違って親しみを持ちやすいそれは、私の心にようやくの安心感をもたらし……その反動で今までの不安が涙という形で止め処なく溢れ出してしまい、方々に多大なる迷惑をかける破目になってしまったのだった。
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岡部フミヤとの出会いから、新たな世界での日々はめまぐるしく過ぎていった。
とはいえ、存在の異常性から一切の外出が禁じられていたので、私の中の異世界認識は未だあまり育ってはいなかったけれど。
でも、そうした待遇に不都合は感じなかった。
何もわからない世界にたった1人放り出される恐怖からすれば、むしろ軟禁上等。
願ったりかなったりと言って差し支えない状況だと思えた。
「へぇ、じゃあ岡部さんって本当は王太子様なんだ。ビップなんだ。
どおりで大仰な名前を持っているなーと思った。」
「ビップ呼びはマジやめろください。嫌な方の意味にしか聞こえない。」
「嫌な方?」
「分からないなら、是非そのままの貴女でいて欲しい。で、えーと……。」
「あー、そういえばまだ名乗ってなかったんだっけ。
私はフミ。宮川フミです。」
「ちょっ、名前カブっちゃってるじゃないですかー。やだー。」
「ヴェイズ・イー・ケイドゥ……。
う~、1か月で言葉を覚えろというのは、やっぱりちょっと無理があるわ。
いくら英語に近いからって、元々そっちだってあまり成績よくなかったのにさ。」
「いや、教師役は当然以後も派遣するよ。
ただ俺が直接教えてやれるのはそこまでってだけで。
それも申し訳ないとは思うけど、立場上……なぁ。
今でも結構綱渡りな感じだし。」
「あぁ、そうか。そうだよねぇ。
捕り物先にあまり長くとどまるのも変だし、そもそも第1王位継承者なら警備以外の仕事もあるだろうし、身元不明の女に入れ込んでるなんて噂が流れたら私も怖いし、それを考えたら1か月でも充分長い方か。」
「宮川さんは理解が早くて助かる。
それ以外なら色々融通するし、要望があればどんどん言ってくれて構わないからさ。」
「えっと、じゃあ……資金面での援助は公費からではなく個人マネーでお願いします。
市民の血税で生活するなんてとてもじゃないけどこう……タカりにくいから。」
「なにその単語チョイス、慎ましいのか図々しいのか判断に困る。」
「今日はコンビ名を考えてきた。」
「いつ私達漫才師になったんですか、仕事してください国内第2位権力者さん。
考えたところで使う場所もないのに、なに無駄な事に時間を割いてるわけ?
貴方の立場なら、やるべきことはいくらでもあるんじゃないの?」
「ごめんなさい、返す言葉もございません。
でも、頑張って考えたので聞くだけ聞いていただけないでしょうか。」
「はいはい、分かった。分かったから、土下座は止めて。
こんなところ誰かに見られでもしたら目も当てられない。」
「今さらだけど、宮川さんが冷静な人で良かった。」
「えー、しょっぱな泣いて迷惑かけた人間のどこが。」
「いや、唐突に異世界に拉致されて初日しか醜態を見せてないあたり相当冷静と思うけど。」
「あー……それはアレだから。
元の世界に未練がないから早々に切り替えできたってだけ。」
「えっ!未練ないの!?早くね!?」
「幼児期に事故で両親を亡くして、親戚もおらず施設で育ち。
2年前から恋人は無し。仕事も一悶着あって辞めたばかり。
友人もそう多い方じゃなかったし、帰れないなら帰れないで……ね。
こっちなら岡部君が生活保障もしてくれるわけだし、ま、人生なるようになるわ。」
「すげぇ、宮川さんマジ強ぇわ。俺は達観系女子の真髄を見た。」
「キミ、たまに分からないこと言うよね。」
「……ずっと、自分が怖かったよ。
この記憶の全てが妄想の産物なんじゃないか、自覚がないだけでただの精神異常なんじゃないか、そんな風に考えない日は無かった。」
「岡部君?」
「地球は……日本は本当にあったんだ。
俺は本当にあそこにいたんだ。……良かった。
俺は、ちゃんと俺だったんだよ。」
「ちょっと何それ中2病ってやつ?
うわぁ、いい年した大人が……引くわー。」
「ここまで何の美点にもならない正直者とか俺初めてだわ!」
「デギアフィス、水洗トイレ。ボルタフィス、汲み取り式便所。
……ねぇ、フミヤくん。これ本当に1か月以内に覚えないといけない日常単語?」
「デギアフィスはワシが育てた。」
「あぁ。要はその功績を自慢したかっただけ、と。」
「おお俺がいなかったらトイレはまだボットンだったんだぞ!
日本人のフミさんに、それがどれだけの偉業か分からない訳ないのにっ!冷たいっ!」
「はいはい、フミヤくんは偉いですねー。」
「わーい。」
「そうだな。言葉もそうだけど習慣とか感覚とか、色々と違い過ぎてとにかくキツかったよ。
例えるなら、アウトドア派の外人集団の中に無理やり日本のインドア派が1人投げ込まれたような感じというか。
なのにその連中はインドア派も自分たちと同じだと疑いもせず接して来るんだ。
でも、総スカンくらうのも怖くて、必死に演技して、話を合わせて……ッ。」
「頑張ったんだね。」
「……うん。」
「そんな集団の中で更にリーダーをさせられるんだもん、辛いよね。」
「…………うん。」
「いいよ、フミヤ。そのままで。今日は1人で復習しておくから。」
「………………ご…めん、フミ。」
「ううん。」
「そっか。もうすぐ1か月か。」
「俺はただの王子だけどさ、それでもフミに戸籍を作ってやることくらいはできるし。
必要なら侍女なりなんなり王宮での仕事を紹介してやることもできる。
さすがに、市井に降りるなら当座の生活費を渡してやることくらいしかできないけど。
一応前世の記憶を活かして色々整備させてるから、思っているほどは不自由しないはずだ。」
「あぁ、デギアフィスとかね。」
「あぁ、デギアフィスとかな。」
「フミヤ。私、市井に降りるよ。」
「そうか。……フミならそう言うだろうと、何となく思ってた。
じゃあ、それ用の戸籍作っとくな。」
「うん。」
「ちょっと、フミヤ。急になに?」
「俺、フミのこと好きだよ。本気で。
ずっと傍にいて欲しいと、いつだって考えてた。」
「え……でも、それは……。」
「いや、心配しないでくれ。
そんなこと願ったところで到底無理だって、分かってはいるんだ。」
「…………そう。だったら、私だってフミヤのことは好きだよ。
だけど、それだけで一国のお妃様が務まると思えるほど愚かじゃないつもり。
例え妾にするにしたって、私には足りないものが多すぎるから。
信頼に値する過去がない。未来の王に侍るための身分がない。より多く子を授かるための若さがない。歴史や文化に対する知識だけでなく一般常識すらない。高貴な人間の前で恥をかかないための最低限の教養もない。そして、それらを少しでも補えるような経験すらない。何より、私には覚悟がないわ。
ともすれば、国そのものを揺るがす事態になりかねないんだもの。暗殺だって怖いし。
私がフミヤの傍にいることを選んだって、きっとすぐ精神的に参っちゃって、愛する気持ちなんか容易に宇宙の塵よ。」
「フミさん、ほんと冷静スなぁ!!」
「そっか、今日でお城に戻っちゃうのか。何だか、あっという間だったね。」
「それであの、餞別……でいいのか分からないけど、単語辞書作ってみたんだ。
手書きで汚いし、大きくて重いだろうけど、良かったら貰ってくれないかな。」
「うわ、こんなにビッシリ……大変だったでしょう。
でも、すごく助かる。嬉しい。一生大事にするから。」
「あぁ。喜んでもらえて良かった。」
「何もかも、ありがとうフミヤ。
……一緒にいてあげられなくて、ごめんなさい。」
「いいんだ、フミ。
同じこの空の下に君がいる、それだけで俺はきっと強く生きていけるから。」
「くさっ。」
「思っても言うなよ、そういうことは!
違う意味で涙が出そうになっちゃうでしょーっ!?」
「え~。男ってホント繊細でロマンチストだよね。」
「ごほんっ……まぁ、とにかく。さよならだ。
おそらく、もう2度と会うこともないだろう。
だからどうか……元気で。」
「うん。さようなら、フミヤ。お互い寿命で死ねるといいね。」
「最後の最後で不吉なフラグ立ててくるとか何この子超怖いんですけどー!」
「……ところで、ねぇ。
最後にひとつだけ、貰いたいものがあるんだけど。いいかな?」
「ん、なに?」
「えーと、その、貴方の中にある岡部フミヤの心、とか。」
「フミも充分くさ……何でもない。いいよ、貰ってやってくれ。
俺には……いや、私にはもう必要のないものですから。」
「……では、確かに頂戴致しました。
尊きベハイニール殿下へ心よりの感謝と忠誠を。
殿下の戴冠なされた暁には、より一層の繁栄をお祈りしております。」
「新たなるカレイールの民を我が血において歓迎します。
フミ・ミヤガワに良き祝福を。」
こうして、この日。岡部フミヤと宮川フミは永遠に結ばれ、王太子ベハイニールとカレイール国民フミ・ミヤガワの2人は新たな道を歩み始めるのだった。
…………なーんて、ね。
これじゃあ、彼をロマンチストだなんて笑えない。
でも、それ以外の落としどころはきっと私達2人には存在しなかっただろう。
日和見で愛想笑いが得意で義理堅くて画一的で……そんな日本人の私達には。
だから、これがフミとフミヤの唯一のハッピーエンド。
盛り上がりに欠ける地味で儚い恋物語。