蛙の根付 / Strapped frog
あら、窓からなんて、珍しいお客さん……って、久しぶりじゃない。また地球に戻ってくるなんて、どうしたの。
なるほど、顛末書を書く破目になって、調書とかいろいろ用意しないといけなくなったわけね。御愁傷様。
煎餅でも食べる? あらそう、残念。
それで、必要な情報ってやっぱり、四月の終わり頃の話? 今年の夏も猛暑でやんなっちゃうけど、あの時期もかなり暑かったわよね。
そんな、どうでもいいだなんて、つれないなー。あのときの話なんて、別に大したことの無い些細な出来事だったんだから、多少は脚色していかないと。
はい、見つけた。確認する? それじゃあ、彼女が相談役になる少し前からの行動記録を辿るとしましょうか。
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天池須弥は、蓮ばあさんの孫娘である。
須弥がまだ幼い頃、彼女の両親は仕事の都合で地球の反対側へと転居してしまった。彼女を置いて、である。須弥が高等学校を卒業し、美術系の専門学校とやらに通うようになった今でも、年に数度、戻ってくるかどうかの疎遠さだ。まったく、便りが無いのは元気の証拠とは、よく言ったものである。
日本に残された彼女の面倒を見ていたのは、祖母である蓮ばあさんで、須弥もよく懐いていた。彼女が高校に入って一人暮らしを始めてからも、ばあさんの襤褸アパートにはときおり顔を見せていた。何より、今年初めの成人式には振袖姿でやってきて、ばあさんを驚かせ、喜ばせていた。
だからまあ、蓮ばあさんが布団の中で大往生していることに、初めて気付いたのが天池須弥だった、というのは別段不思議なことではない。両親とは連絡がつかず、他に頼れる親戚もいなかったから、彼女は途方に暮れた。しかし、アパートの店子連中がばあさんの葬儀の手伝いを買って出たため、幸いにも大きな問題は起こらなかった。
葬儀は内輪で行われた。どこからか報せを聞きつけた耳聡い奴らが何人か、アパートの前で手を合わせたり、塀の上で一声鳴いたりして帰って行ったらしいが、それを含めても滞りなく。
空から未確認飛行物体、あるいは火の車がやってくることも、蓮ばあさんが息を吹き返して棺桶から元気に飛び出してくることもなく、事は済んだ。
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綺麗に片付いた六畳間の真ん中に、紫色の包みが静かに置かれた。縁側に続く窓から、春の日差しがさしこんで、漂う埃を白く浮き上がらせている。
包みの中の箱のなか、壺の中にあるのは、この部屋の主だった蓮ばあさんとは似ても似つかぬ小さな欠片である。だがそれは、孫娘が故人を想うための拠り所であり、彼女以外にとっても同様だった。
喪服姿の天池須弥は、両膝をついたまま背筋を伸ばし、両手を合わせて目を閉じる。彼女の背後、狭い玄関に立ったまま、その様子を見守っていた茶髪の青年も、代わりに運んでいた手提げ鞄と白い紙袋を板張りの床に置き、拝むように右手を目の前にかざした。
すぐ傍を通っている中央線に電車が差し掛かる。振動と騒音に混じって、部屋のあちこちが軋む音まで聞こえてくる。蓮ばあさんが子供の頃、戦後すぐに建てられたこのアパートは、吉祥寺駅から歩いて十分もかからない立地の割に、かなりの年代物の、安物件なのであった。
電車が通り過ぎたのを見計らって、右手を下ろした青年が口を開く。
「じゃあ、オレは上に戻るけど」
「ん、ありがと、勇人」
須弥は立ち上がると、大口を開けてふわ、と大欠伸をした。おぼつかない足取りで玄関横の台所へと歩いてくる彼女を見て、勇人は眉根を寄せた。
「おい、大丈夫か」
「もう駄目、さすがに眠い。いったん下宿に戻らなきゃだけど、夕方まで仮眠する」
靴を脱ごうとした勇人を片手で制止し、食器棚から自分用の湯呑みを取り出す。流し台に寄りかかりつつ、入れたての水道水を飲み干すと、彼女は幾分かはっきりした表情で言葉を続けた。
「今後の話とかは明日にしてもらえるように、みんなに言っといてくれる?」
「わかった。何かあったら遠慮なく呼びな。居なかったらメールしてくれ」
「んー」
玄関扉の鍵を閉め、外からわずかに漏れ聞こえてくる店子連中の話し声を背にして、須弥は押入れへと向かった。蓮ばあさんが寝ていた布団は部屋の片隅で折り畳まれているけれど、さすがにそれを使うほど彼女は図太くなかった。
ふすまを開けてすぐに、須弥は自分が使っていた布団の手前にドラッグストアの袋が置かれていることに気づいた。中を覗き込むと、小さな黒い箱がいくつも入っている。
「こんなにマタタビ買って、なんに使うつもりだったんだろ……ま、いいか」
ちょっとした疑問は眠気に敗北し、白いビニール袋は押入れの下の段へと移動させられた。
枕を畳の上に放り投げる。毛布を取り出して適当に身体に巻き付ける。髪留めを外して首を振り、ぱたりと勢いよく横になった彼女の目の前に、鈴の音と共に緑色の小さな物体が転がってきた。
鏡台の上から落ちてきたそれを、須弥は半分閉じかけた目で観察する。親指の先ほどの大きさの鈴を、大事そうに抱える雨蛙の根付。
蓮ばあさんが肌身離さず持っていた『それ』に向けて、須弥は小声で呼びかける。
「おやすみ」
眠りに落ちていく彼女の言葉に答える口は無いけれど、鈴を一度、ちりんと鳴らして応えておこう。
†
数時間の仮眠のあと、乱れた髪と皺の寄った喪服に多少の後悔を抱きつつ、天池須弥は祖母が遺した手紙を読み返し始めた。
蓮ばあさんは、遺産と呼ぶべきものをほとんど持っていなかった。彼女が管理していたアパートの所有権はすでに孫娘へと移っていて、預金に関しても同様だった。それを知った須弥は、その用意周到さに感心すると共に、専門学校を辞めずに済むだけの貯えがあることに感謝していた。
相続に関する面倒な手続きの大半が不要であることを再確認し、鏡台の隠し棚に入っていた自分名義の通帳と印鑑を元の場所に戻してから、彼女は再び手紙を手に取った。
「……長屋を手放すかどうかは好きになさい。手放すのなら、『かがりや』の主人を訪ねること。そうでなくても一度、彼の話を聞いておきなさい。何でもいろいろ知っている人だから、か」
手紙に挟まれていた薄紫色の名刺を手に取る。『古道具 歌借屋』とだけ書かれた紙片の裏側には、吉祥寺駅からの案内地図が描かれていた。吉祥寺の南側、玉川上水の近くにあるその店には、アパートから十五分ほども歩けば辿り着けるようだった。名刺に連絡先は書かれておらず、直接行くしかないかと結論付けて、文章の続きに目を通す。
「追伸。前に話していた青い金魚のこと。私が生きているうちに渡せなかったら、かがりやさんから受け取ってください」
そこまで読み上げたところで、須弥は手紙を膝の上に置いて首を傾げた。そのまま考え込んでいた彼女は、しばらくしてから「ああ」と小さく呟いた。
蓮ばあさんが須弥に『青い金魚』の話をしたのは、かれこれ五年も前のことであるから、彼女がそれを思い出すのに丸一日かかったのは仕方がない。
「ヨーロッパの、珍しい、青い金魚、だったかな」
彼女が中学生の頃のことであるから、記憶が曖昧なのも仕方がない。当時、蓮ばあさんの話に食いついた彼女は、どうしても実物が見たいと無理を言ったのである。
どうやら今日明日にでも『かがりや』の主人に会う必要があるようだ、という考えに至ったのか。手紙を折りたたんで封筒に収めると、須弥は壁にかかった時計に視線を向けた。
既に夕刻に差し掛かっているのを見てとって、須弥は「明日かな」と呟く。封筒を鞄に仕舞おうとしたところで、携帯電話がメールの着信を知らせていることに気付いた。
「っと、でこポンからか。寝る前に来てたかな」
送信相手の名前とメールの内容を流し見して、須弥はわずかに頷いた。立ち上がろうと畳についた指先が、すっかり忘れ去られていた小物に当たって、ちりんと音を立てた。
蛙の根付を拾い上げた須弥は、そのまま少しだけ思案して。根付の紐を携帯電話のストラップの穴に通して結わえ、鞄に戻して今度こそ立ち上がった。