2:思い出せない約束
忘れてしまうことなどあり得ない、言外にそう感じさせるようなその反応から鑑みるに、私はかなり重大な約束を取り付けていたらしい。
「お、おおお嬢様、ほ、本当にお忘れでいらっしゃるのですか?」
「え、ええと……そう、昨夜までは覚えていたのよ、きっとね。でもひどい夢を見たショックで私、ところどころ記憶が抜け落ちてしまっているみたいで」
「そんな……そんなバカなことが……」
ああ、やっぱり。こんな稚拙な言い訳じゃ納得してもらえるわけがない、そう思ってうつむきかけた時。
拾い上げたブラシを高く掲げ、空いた方の手を胸に当てるミラ。悲壮感に満ちた表情をつくろうとして眉根を寄せてはいるけれど、わざとらしさが前面に出てしまって、どちらかと言うと面白い顔つきになっている。
「記憶に障害が出てしまうほどの悪夢なんて、どれほど恐ろしいものだったのでしょう! もし私に魔法が使えたなら、お嬢様の夢の中にまでお供してお守りできたのに!」
「……ミラ、あの」
「かくなる上はこのミラベル、あの幻の山に住むという仙人から魔力を授かる旅に――」
またいつものやつが始まった、そう心の中で呟きながら、私は深々とため息をついた。
「ごめんなさい、ミラ。ふざけたつもりはないのだけれど、怒らせたなら謝ります」
「分かればよろしい」
腰に手を当てて満足そうに言うと、ミラは再び私の身支度を整える作業を開始した。
こんな稚拙な言い訳じゃ納得してもらえるわけがない。さっきの心の呟きはまさにその通りで、私がミラの立場だとしても、何をバカなことを言っているんだとたしなめるだろう。こんな変なたしなめ方はしないけれど。
「まあ、分からなくはないです。私がもしお嬢様の立場だったら、緊張しすぎて具合が悪くなっちゃうと思いますし」
「……ありがとう、理解してくれて」
「理解した、とは申し上げておりませんよ。ただお嬢様のお心に寄り添ったまでのことです。こんなに大事な日を、忘れた、なんて仰ったことについては理解不能ですので」
んん、厳しい。
「とにかく、今日はうんときれいにしましょうね。旦那様や奥様がご覧になったら、やっぱり嫁に出したくない! と嘆いてしまわれるほどに」
「……嫁」
瞬間、背中を嫌な感触のする何かで撫でられたような気がして、私は思わず肩を震わせた。
「半月前に参加なさったお茶会では、まさにそういった佇まいでいらしたと伺っておりますよ! ご令嬢方がとびきり着飾って華やぐ中、誰よりも美しくあられたそうではありませんか」
「そ、そうなの?」
「そうなのでございます! あの日エスコートなさった旦那さまがその後数日ほど、お嬢様の美貌についての話に付き合わせようとするから仕事にならない、そうバリーがぼやいていましたよ」
我が家の屋台骨を支える有能家令、バスチアン・バリー。財産や領地の管理、使用人の監督、住居や庭園の維持管理などの一切を完璧にこなしてくれていて、バリーの補佐のおかげでヴェルレー家はここまで安定した地位を築くことができたと言っても過言ではないほど、優秀な人だった。
「この頃はまだ、健勝にしていたのね……」
「え、何か仰いました?」
「ああ、いえ。何も」
彼が亡くなり、それに伴ってヴェルレー家も衰退の一途をたどったという、まだもう少し先に訪れる未来の話は一旦置いておこうと思う。今は目の前に横たわっている問題、”今日の約束なんだっけ?”を解決しなくては。
「……ねえ、」
「あーあ……私もそのお茶会、行きたかったなあ」
今日の日付を確認すれば、何か思い出せるかもしれない。そう考えて掛けた声に重なるように、ミラがため息を交えながら小さく呟いた。




