3:守り人は安酒の香りを纏う(3)
甘さと清涼感が合わさったような、この独特のハーブの香りは、強く匂い立っているわけではない。体に染みついた香りが、体温の上昇に伴ってほのかに漂っているような感じだ。
あの店に入ってすぐ、床にこぼれたお酒に滑って転びそうになった私を助けてくれたのが、エディだった。後ろにひっくり返りそうになったところを、いまのように手首をつかんで引き寄せてくれた時も、同じような香りを感じたように思う。
「おやめ下さい、クレマンス様にそのような真似は……!」
「マルセル、黙って見ていられないなら部屋を出るといい。休憩を返上して業務に従事しろと私が命じれば、お前は従わざるを得ない立場の人間なのだから」
「わたくしはあなたの為を思って申し上げているのです! その方はヴェルレー家のご息女、粗雑に扱ってよい方ではありません!」
ジャンにそう咎められても、彼は私の手首を強く握ったまま、一切目も離さない。そんな彼の瞳を、私も逸らすことなく見つめ返しながら思考を巡らせた。
この人は、エディで間違いないのだろう。公爵夫人時代、ジュリアンの身代わりとなる男性を探して立ち寄ったガルゴットの給仕係。それがまさか、こうして上質なジャケットを着込んで宮殿内を闊歩し、令嬢たちを選別するような立場の人間だったとは。
「どこで、私を見ましたか」
「……」
「答えてください。どこの何という店で私を見、私のことを知ったのかを」
「ムッシュ、落ち着いて」
この言葉はエディだけに宛てたものではなく、ソファから立ち上がったジャンが、こちらに向かおうとするのを止めるための牽制でもあった。
手出しは無用。そんな私の思いを間違えることなく汲み取ってくれたのだろう、ジャンの足音は止まり、衣擦れの音が近づく様子も感じられない。
私は小さく息をついてから、エディに向かってにっこりと微笑んでみせた。
「まず、この手をお放し下さい。この距離感ではまともな受け答えはできませんから」
「逃がすわけにはいかないのでね。あなたがいまの質問にきちんと答えれば、考慮しましょう」
「私がどうやって逃げると? 内鍵とは言え扉は施錠されておりますし、何より私はか弱い小娘です。万が一この部屋から出て宮殿内を駆けずりまわったとしても、すぐに捕まってしまうに決まっております」
「そうでしょうか。マルセルを飼いならすような手練をお持ちのようですし、油断はできません」
私の表情とは対照的に、エディの眉根は深いしわが刻まれるくらいに寄せられている。手首を握る力がやや強くなったのは、焦りや苛立ちを感じているからだろうか。
「ご心配には及びません。私は、あなた様を害する気は毛頭ございませんから」
「余計なことは言わなくて結構です。私をどこで見たのか、それだけを答えてください」
「”止まり木”」
時間が止まったのかと思うほどの、深い静寂。引き結んだエディの唇は、先ほどよりもかさついて色味を失ったように見える。
どうやら、店名に間違いはなかったようだ。
私は、息をする音を立てることすら憚られるような緊張感の中、沈黙するエディをじっと見つめた。
ジャンにも私の話を一緒に聞かせて、王家を動かすために手を貸してもらおうと考えていたけれど、この人の弱みを私が握っているというのなら、それを最大限利用する方が確実性は増すだろう。
何にしてもこの瞬間を逃せば、もう私が場を支配する機会は訪れないかもしれない。
そう思った私は、何か言おうとしかけたエディよりも先に口を開いた。
「どこで見たのか、私はきちんと答えましたよ。次は、あなた様の番ですわ」
目を細めて私を見下ろすエディ。手首をつかむ力が、わずかに緩む。
「……あなたの望み通りに動く謂れが、私にあるとでも?」
「こちらの情報を引き出したいのでしょう。それなら、従う他ないと思いますが」
室内は再び静けさに包まれたけれど、先ほどのような重みはない。私の脅しともとれる提言を受け入れるべきか迷い、エディはただ答えあぐねているようだ。
もう一押し。否、ここは少し引くべきか。
少しの逡巡のあと、私は掴まれている方とは反対の手で、緩んだ彼の指にそっと触れた。




