2:守り人は安酒の香りを纏う(1)
「おーい、こっち! ビール足りてねえんだって!」
「てめえ、俺の酒飲みやがったな!」
「なあ、こないだの仕事の紹介料、いつになったら払ってくれるんだよ……」
「お前の出目さっきから偏ってねえか? まさか、イカサマやってんじゃねえだろうな」
男たちの喧騒が、耳をつんざく。安ワインやビール、塩豚スープ、ひび割れた固いチーズの載ったテーブル。泥だらけの靴で汚された、いまにも底が抜けそうな木板の床。安酒の酸っぱさやえぐみを隠すために使われる、ニンニクや香草の強い香り。私がふだん触れることのない世界に住む人たちの、いまを生きる熱気。
それらがすべて組み合わさってできたこのカオスな空間に、私のような世間知らずの小娘が飛び込むなんて、正気の沙汰ではない。そんなことはちゃんと分かっていた。でも、私のこの許されざる行動が世間に広まって、公爵家の名を貶めることになるのはどうしても避けたかった。
貴族階級の人間が出入りしない場所。私が”サントクロワ公爵夫人”であるとは誰も知らないような、名誉や権力が全ての世界から切り離されたこの場所なら――。
「ヴェルレー伯爵令嬢」
私の名を呼ぶその声は、開いた扉の向こう側に確かに広がっていたはずの、下町のガルゴットの雰囲気を一瞬でかき消した。
「案内人はどうしました? つい今し方、ムッシュ・マルセルの声で入室の告知があったのを確かに聞いたのですが……」
部屋の真ん中に置かれた丸いカフェテーブルと、それを挟むように対面に並ぶ二脚の豪華な椅子。部屋の奥側の一脚に腰かけていたらしい、おそらく面接官であろうその人は、立ち上がりながら私にそう声を掛けた。
一瞬、過去の記憶をなぞるかのように目の前に広がった幻は、いまはもう見えてはいない。なのに、馬車を降りる時に感じたものと同じ、あの安酒の独特な匂いが、また私の鼻腔を刺している。
明るいベージュなんて、この国ではよく見かける髪色だ。長く伸ばした前髪を、左側の目を覆うように流している男性だって、きっとどこにでもいる。こういった中性的な顔立ちはジュリアンも同じような感じだし、たぶんよくある人相なのだろう。それに何より、店内でせわしなく雑用をしていた彼は口がきけなかったはずで――
「エディ……?」
違うと分かっていたのに、なぜか私はその名前で呼びかけてしまっていた。
瞠目してこちらを見つめる面接官。発言した側であるはずの私も、同じくらいの驚きをもって口元を手で隠す。
彼は、あのガルゴットで働いていたエディは、こんな宮殿の中枢部に入れるような身分の人間じゃなかった。エディが南部からはるばる出稼ぎに来た農家の次男だというのは、あの人が教えてくれたことだ。
他人の空似だと、ちゃんと分かっていたはずなのに。
「も、申し訳ございません、不躾にお声を掛けてしまいました」
しどろもどろになりながらも、なんとか頭を下げる。このタイミングで死に戻り前の幻を見た上に、ガルゴットにいた給仕係のことを思い出してしまうなんて、どれだけ間が悪いんだろう。そう思いながら再び顔を上げると、その人はさっきとは打って変わって表情を険しいものにしており、射抜くような視線をこちらに向けていた。
お見合いにきた令嬢にあるまじき無礼さを、無言の内に咎められているのかもしれない。そんな風に感じるくらい、面接官がまとっている雰囲気は不穏なものだったけれど、こんなことで怯んではいられなかった。
あの子が、ルシウスが生まれるこの世界を、できる限り幸せに整えておくために。それにはまず、ヴェルレー家を存亡の危機から救わなければならない。この使命、何が何でも全うしておかなくてはならないのだ。
私は一気に高まった緊張を抑えるべく、大きく息を吸い込んだ。コルセットが示してくれている位置で姿勢を整え、心の中で自分を叱咤し、ようやく一歩を踏み出して室内に入った、その時だった。
「マルセル」
面接官がよく通る声でジャンの名を呼んだ。
その声は落ち着いてはいるものの、こうして踏み出した一歩で足を止めてしまうほどに、私に対する強烈な拒絶のオーラを発している。
「扉を閉めて施錠を」
「えっ」
「クレマンス嬢には少し時間をかけて話を聞き出す必要がある。ヴェルレー伯爵と伯爵夫人には、先にお帰り頂きなさい」
扉が開いてから、わずか数分、あるいはまだ数秒。ヴェルレー家の尊厳を背負って臨もうとしたこの交渉の場は、ジャンに教えてもらった紳士流のマナーを披露することもなく、また有用な発言をする機会も与えられないまま、最も悪いかたちで閉鎖されることになってしまった。
「あっ、あの、ムッシュ!」
私は閉じゆく扉を気にしながらも、慌てて面接官の方に向かって数歩、歩みを進めた。
「私に不手際があったことは認めます! ですがこれには深いわけが」
「ではその深いわけとやらを、これからじっくり聞かせていただきましょうか」
聞いてもらえるのは有難いけれど、こんな状況ではきっと私の思うように事は運ばない。
どうすれば。ここから何をすれば、うまく事態を切り抜けられるだろうか。
こげ茶色のテールコートの裾を翻しながら、こちらに面接官が近づいてくる間にも、扉は容赦なく閉じられていく。分かってはいたけれど、ジャンはやはり助けてはくれないらしい。
「あの……謝るだけではだめですか?」
「だめに決まっています。これは我々にとって由々しき事態となり得ますから」
そんな。王室がルールに厳しいところだということは身に染みて知っていたけれど、女性が淑女として振る舞わないのは、由々しき事態となるほどのものだっただろうか。
公爵夫人時代の記憶を逡巡していると、面接官は私のすぐ目の前に立ちはだかるかたちで立ち止まった。




