7:伏兵の正体(2)
「お時間がございません。ご親交を深めるのはそのあたりにして、そろそろ……」
「ええ、分かりました」
ジャンの絶妙なタイミングでの助け舟に、心の中で感謝しつつ小さくうなずく。
セレスティーヌをじっと見つめると、彼女は名残惜しそうに握りしめていた私の手に目をやってから、そっと力を抜いた。
「クレマンス様、あの」
「世間がどのような噂を囁いていようと、現時点で私とサントクロワ公爵閣下との間には何の約束も成されていません」
私の言葉に、セレスティーヌは何か言いかけていた口を閉じ、小さく首を傾げた。
「まだ始まってすらいないことを、さも実際に起きているかのように話す声に惑わされませんよう。また、あなた様の方もどなたかを惑わすことのないように、ヴェルレー家の者として心からお願い申し上げます」
セレスティーヌを牽制したところで、世間のうねりが変わるわけではない。でもいま私の後ろに立っているのは、王太子に近しい人物であるジャンだ。この人の耳目が王太子に繋がっていることを利用すれば、ジュリアンが固めつつある外堀を打ち崩すことができるはず。
そんな思いを込めた訴えがジャンに届いていることを祈りながら、私はその場を辞するあいさつをするために頭を下げようとした。
「……父は、残念がるでしょうね」
ポツリと呟くセレスティーヌ。その顔容には、相変わらずやわらかな笑みが浮かんでいる。
「あなた様自身が喜ばせればよいことです。それに、公爵閣下ほどのお人ならもっと他に素敵な方が」
「いやだわ、ご謙遜なさらないで。あなた以上に閣下にお似合いの女性なんて、他にはいませんもの。少なくとも、私はそう信じておりますから」
そう言って目を細め、セレスティーヌはさらに破顔してみせた。
と、その時、彼女の後ろで先ほどから所在なさげにしていた侍女が、私の肩越しの何かを見て一瞬ハッとした表情をしてから、みるみるうちに顔を青ざめさせた。
「ま、参りましょう、セレスティーヌ様。ロアン子爵がお待ちのお部屋までご案内いたしますわ」
「ええー? 私、まだ王太子殿下とお話できていませんよ?」
「申し訳ございませんが、そのように酔ってしまわれては、殿下の元にお通しすることはできませんので……」
「そうですかぁ……。ではまた日を改めて、ということですね」
「いえ、その……」
「クレマンス様、私はこれにて失礼いたします。またお会いできること、心より願っておりますわ」
セレスティーヌはそう言って頭を下げ、軽く膝を折った。
「あっ……」
一瞬、ぐらついた彼女の体をとっさに支える。耳元に寄せられた唇から甘いシャンパンの香りが漂った、その時。
「ご健闘をお祈りしております、奥様」
弾かれたように体を離し、セレスティーヌを見つめる。彼女の方は既にこちらに背を向けており、私を振り返ることもなく、侍女に手を引かれて黒檀の扉の方へ向かって行った。
「……ねえ、ジャン」
小さくなる二人のうしろ姿を見送りながら、斜め前に立つジャンに声を掛ける。
「マルセルです」
私と同様、廊下の向こう側に目をやったまま答えるジャン。
「あの侍女に何かなさったの? 殺されるのではないかというくらいに怯えた目をしていたけれど」
「特段何もしておりません。職務を全うしろという思いを込めて見つめたまでです」
込めていたのは本当にその”思い”だけだったのか、殺意や恫喝的な感情は混入していなかったか。聞いてみたいけれど、藪蛇な気もする。
「探られたくない腹があるようですね、クレマンス嬢」
「……」
藪はつついていないはずなのに飛び出した蛇に、思わず視線を泳がせてしまう。ジャンがこちらを振り返るような初動を見極めた私は、表情を確認されないように慌ててジャンの方に背中を向けた。
「結構。隠し事の一つ二つがあってこそ、人としての深みが出るというものです」
「あら、ではいまの私は浅はかな小娘ではなく、腹に一物を抱えた淑女としてジャンの目に映っている?」
「マルセルです。……王太子殿下とどのように対峙するのか見たくなってしまうくらいには、面白い小娘だと思っておりますよ」
行きましょうか、そう言って背中をポンと叩くと、ジャンが私の一歩前に進み出た。
セレスティーヌが私を”奥様”と呼んだのは、死に戻り前の記憶があることをアピールしていたためか、それとも単に婚約を成立させてほしいという願望をあらわしただけだったのか。私を貶めようとする敵か、新たな道を邁進する後押しをしてくれる味方か、それすらも分からない。
懸念材料が増えた状態ではあるけれど、いま私が果たすべきはヴェルレー家の危機を救うことだ。そのためにはまず、王太子との顔合わせにつながる面談をうまくクリアしなければならない。
目の前のことに集中しよう。私はジャンの黒いジャケットの背中をじっと見つめながら、大きく深呼吸をした。




