4:甘いお菓子にはご用心
玄関ホール横にある談話室で、私は大時計の針が刻む時間を確認してはため息をつく、という作業を幾度も繰り返していた。
戻ると約束した時間はとっくに過ぎているというのに、父は帰ってこない。あんなに怖い顔をする父を見たのは初めてだったし、母でさえも記憶にある限りではああいった表情を目にしたことはなかったそうで。
「遅いわねぇ……」
「そうですね……」
母と2人、室内で一番大きなソファにお互いの体重を掛けあいながら座りつつ、今日何度目になるかも分からないセリフを呟く。
私たちは不安からか、そろって食事を摂る気になれず、こうして父の帰りを今か今かと待ちわびていた。
「旦那さまのご帰宅が遅れるのはよくあることです。もしお疲れなのでしたら、今夜はもうお部屋にお戻りになって床に入られてはいかがでしょうか」
何があっても賛同しないであろう提案をしたのは、ミラベルだ。バリーと面談練習をしていた時から姿が見当たらなかったけれど、父が慌ただしく出て行ったのと入れ替えに、私の元に戻ってきていた。母がいることもあってか、いつもの1.5倍は背筋を伸ばして立っているけれど、その顔色はいつもの3倍は悪い色合いをしている。
「ミラ、あなた体調が良くないのでしょう? 今夜はもう私に付き添わなくて良いから、部屋に戻ってゆっくりなさいよ」
ソファのすぐそばで姿勢を正すミラに、ため息交じりでそう指示する。するとミラは眉間にしわを寄せ、まるで私がとんでもないことを言いだしたかのような、非難めいた表情でこちらを見下ろした。
「何をおっしゃいますか。先日は丸一日お休みを頂いてしまいましたし、今日だってまともに働いていないんです。今夜は何としても仕事をさせていただきます」
「……普段からそれくらい仕事熱心でいてくれると有難いのだけれど」
「何をおっしゃいますか! 私は誰よりも仕事熱心な侍女ですよ。ああ、お仕事楽しい、働くの大好き!」
「あのねぇ……」
明らかに無理を押しているのが丸分かりなその様子を見かねたらしく、次は母がため息交じりに口を挟んだ。
「その真っ青な顔を見ていると、正直こちらがつらくなるの。今日の分の給金は満額で計算してもらえるよう、バリーには私の方からとりなしておくから」
「えっ!」
さっきまで光を失っていたミラの瞳が、急にキラキラと輝いた。どうやら、かたくなに私の指示を受け入れなかったのは、これ以上給金が減ることを避けたかったかららしい。
「とにかくさっさと部屋に戻りなさい。明日もそんな様子なら、ローゼに言って強制的に休みを取らせるよう手筈を整えますからね」
「かしこまりました! 奥様のご命令には逆らえませんものね! ではお言葉に甘えて今夜はゆっくりお休みを――」
大声を上げたことに因果関係があるのかどうかは分からないけれど、ミラは急に口を真一文字に引き結び、お腹を両手で抱きしめるようにしながら軽く屈んだ姿勢をとった。
「やだ、ねえ、大丈夫なの?」
私が慌てて立ち上がり、母がソファの座面から腰を上げかけた体勢を取ったところで、ミラが手をかざして私たちの動きを制した。
「これしきのこと、ご心配には及びませんよ……フフ」
「不気味な笑い方をしないでちょうだい。よけい不安になるから」
「乙女を捕まえて不気味などと……あっ、お嬢様、私は大丈夫ですってば」
ミラが私の介助を遠慮するのも構わず、肩に腕を回して体を支えようとした時だった。
「シィ、ミラをそこに座らせて、フットマンを呼んできてちょうだい。部屋に運ばせるわ」
「……」
「……シィ? どうしたの?」
香ばしい匂いが、まるでミラから湧き上がるようにふわりと漂う。焼き菓子を思わせるそれは、きっと普段ならおいしそうな良い香りだと思うだけだっただろう。でも、厨房で嗅いだお菓子の焼ける匂いと同じであることに気付いた今となっては、そんなのんきな感想が浮かぶはずもない。
「ミラ……あなた、まさか」
「えっ、な、なんでしょう……」
「ニノンの焼いたお菓子を食べたりしなかった?」
問い掛けた内容が突拍子もないことだったせいか、それとも私の表情があまりに切迫していたせいかは分からない。いつもは私の言葉に素直に返答しないミラが、目を白黒させながらも小さくうなずいた。




