5:ソリストはいかに奏でるか(1)
「ああ、ムッシュ・バリー!」
助かった、面倒に巻き込まれずに済んだ。
安堵のため息を含んだその声色から察するに、ニノンの心の中はきっとこんな思いであふれていることだろう。こちらに背を向けているせいで、彼女がどんな表情をしているのかは分からないけれど、正しく心情を読み取れている自信がある。
「申し訳ございません、わたしは止めたんですけど、お嬢様がちっとも言うことを聞いてくれなくて!」
そう言うと、ニノンは私の手を取り、ぐいっと強く引っ張った。
「ちょっ、ニノン待って」
「待ちません! ムッシュ・バリーもいらしたことだし、これ以上の長居は無用ですよ!」
強引にパントリーから引きずり出そうとするニノンに逆らいながら、何とかライ麦の入った赤い袋に手を突っ込むと、手のひらに当たった粒をできる限りつかみ取る。
私のもつ知識をどううまく伝えるか、なんて、考えている暇はない。バリーの命を救うことを最優先にするのなら、突拍子もない私の話を納得して受け入れてもらうことは諦めよう。
薄暗いパントリーから引っ張り出され、厨房の高い窓から差し込む午後の柔らかな日差しに目を細めながら、私はバリーをまっすぐ見上げた。
「……ミラベルを探しに行かれたはずが、どうしてここにおられるのです」
「厨房からお菓子の焼けるのよい匂いがしたから、少し覗いたのよ」
「お嬢様っ、そのお話は……!」
「ほう、お菓子、ですか」
片眼鏡越しの一瞥が、口を挟もうとしたニノンを抑え込む。
バリーは軽く咳ばらいをしながら、すぐに私の方へと視線を戻した。
「厨房は衛生的管理を徹底しており、非常にセンシティブな場所となっております。加えてセキュリティ面も鑑み、決められた使用人以外は出入りできない規則があるのですが……よもやご存じなかったとは仰いますまい」
「ええ、知っていたわ。その上でここに入り込んで、ニノンにパントリーの奥まで案内をさせたの」
ルール違反を指摘されたにも関わらず不遜な態度とったせいか、こちらをじっと見降ろすバリーの瞳には、やや困惑の色が浮かんでいる。
こういう場面では、いつもすぐに謝っていたはずなのに。バリーの表情は、そんな思いを雄弁に語っているようだった。
「ずっとこんなご様子なんですよぅ。わたし、ご令嬢たるお方がこんなトコにいちゃいけないって、何度も申し上げたのに」
「ニノン、君はちょっと黙っていなさい。……それで、お嬢様の気まぐれな探究心は満たされたのですか?」
「いいえ、まったく」
言うや否や、私はさきほどから強く握りしめていた拳をバリーに向かって突き出した。
「サブル・グリゼ地方について、不気味な噂が飛び交っているらしいわね」
「噂? ……ああ、呪いがどうとかいう、あれですか」
「あそこで原因不明の熱病が流行しているのは、この外来のライ麦の種子を歴史ある土地に根付かせた罪で、神から裁きを受けているせいだって」
息を大きく吐き出してから、ゆっくりと指を開く。
私の手の中でさらりとうすい黄金色の粒の山が崩れ、そこから黒くいびつな形を成した大きな粒が顔を出した。それを見止めた瞬間、頬を強張らせるバリー。誤魔化すためか、すぐに口元にいつもの笑みを載せたけれど、緊張感は隠しきれていない。
「まあ……ヴェルレー家を弱体化させようとする輩は、家が興った時から密やかに息づいておりますから。こういった根拠のないデマは定期的に流されては淘汰されてきましたし、今回のものも同様、そう気にすることではございませんよ」
「でも、熱病が拡がっているのは事実なんでしょう」
私の問い掛けに、バリーは答えない。驚いたような表情で唇を引き結んでいるところを見ると、答えないのではなく、言葉を失っているのかもしれない。
――サブル・グリゼ地方は壊滅。ライ麦畑の次世代の担い手をもなくし、ヴェルレー伯領領主はなおも迷走を続ける。
不意に頭をよぎった新聞のとばし記事と、なかなか二の句を継がないバリーの険しい表情が重なる。
「教えて、バリー。その熱病はどれくらいの規模で、サブル・グリゼ地方において流行しているのかを」




