2:響く軍靴のその先は(1)
「あれ……?」
部屋から顔を出し、廊下の端から端まで目を凝らして確認する。すぐそこにミラが待っていることを想定していたのに、こうして見る限りは誰もいないようだ。普段は持ち場を離れることなんてしないけれど、さすがに長時間ここで待ち続けるのは疲れたのかもしれない。
「お茶の準備を頼もうと思っていたんだけれど……どうしようかな」
「ミラベルがいないなら、やはり私が行った方が」
「ああ、いいの、大丈夫!」
「いやしかし」
「ずっと座りっぱなしだったから、運動がてらミラを探しに行ってくる。少し待っていて」
中から心配そうに声を掛けてくれたバリーに伝えてから、私は静かにドアを閉めた。
ミラが休憩するとしたら、厨房と隣り合わせになっている食堂だろう。そう当て込んだ私は、そちらの方へ向かって足を踏み出した。
ここは屋敷の1階部分で、使用人の生活エリアとしてあてがわれた場所だ。いま出てきた部屋はただの空き部屋だったらしいけれど、誰かが使わない机を放り込んだある日を境に、物置と化したらしい。
面接の際、ひどい処遇を受けることも想定してあの部屋で練習をすることにしたのだけれど、そこまで悪い環境ではなかった。むしろいろいろな物に囲まれた狭苦しい感じが快適とさえ感じられて……
「私の部屋も、あんな風に物をたくさん置いてみようかしら」
実践すればきっとミラが発狂するだろう、と考えついて、私は1人で口元を緩ませた。先週の体調不良はすぐに回復したらしいのに、なぜかここ数日のミラは覇気がなかった。だから、ちょっとしたイタズラとして模様替えをすれば、怒りのパワーで復活するかもしれない、なんて思ったのだけれど。
「まあ、ミラの前にローゼがきっと許してくれないわよね」
そんな独り言で、バカげた計画をとん挫させるべく締めくくる。
廊下の壁に並ぶ窓からは日光がまっすぐ伸びていて、私は、影、日向、影、日向と順番に辿りながら厨房へと向かった。
角を曲がり、窓が途切れ、すこし闇が強くなった廊下の突き当たりが見え始めた時。
「あれ、なんだかいい匂い……」
お菓子が焼き上がる瞬間の、熱気まで伝わる香ばしさ。私はわくわくしながら、子犬みたいに空気に漂う匂いを集めつつ、厨房に足を踏み入れた。
「何か焼いているの?」
大きなストーブの前、窯の中を覗き込んでいたハウスメイドに、無邪気にそう声を掛ける。
振り返り、私の顔を見るや否や、彼女は声にならない声を上げてその場にひれ伏した。
「おゆるしくださいお嬢様! これにはわけがありまして!」
「え、ああ、うん……?」
「ほんの出来心だったのです! わたし、その、お菓子づくりが大好きで!」
私、どうしていきなり謝罪と弁明と趣味を聞かされているのだろう。
そんな風に思いながら首を傾げる。
「ご主人様方の食料に手を出すわけにはいかず、でもライ麦の粉は大きな袋でしか売ってくれなくて、置く場所もなく、そもそもわたしのおこづかいじゃとてもじゃないけど買えなかったんです!」
「ええと……お給金が足りないということ?」
「いえ! いえ! そうではなく! ほとんどを実家に仕送りして、少しだけ自分のために残しているだけのことでございます!」
「ああ、そうなのね。良かった」
良かった、ではない。依然として話は見えていない。
私は厨房内に行き渡っている焼き菓子の匂いを深く吸い込んでから、床に張りついたままで微動だにしない彼女を、好奇心をもって見つめた。
「あなた、お菓子を焼いていたのよね?」
「はい……」
「ライ麦粉以外の食品はそろえられたの?」
「バターは、使用人同士でお金を出しあって買った牛乳を使って自分で作りました。卵は規格外のサイズのものが安くばら売りされていたので……」
「あとの材料は?」
「わたしの村が、村ぐるみで養蜂をやっておりまして、実家から分けてもらったはちみつを使いました。オレンジピールの砂糖漬けは、昨年ご主人様がわたしどもに分けて下さったものがあるので、それを」
つまり、ライ麦粉だけはどうしても用意できなかったから、ヴェルレー家が購入したものを使ったということだろうか。
でも、さっき彼女は「主人の物を使うわけにはいかない」と言っていた。じゃあ、ライ麦粉は一体どうやって調達したのか。
「ごめんなさい、出来心でつい、他人様のものに手を出してしまいました。小さい頃に大好きだったライ麦クッキーを、どうしても自分で再現してみたかったんです……」
今にも泣き出しそうな震え声にいたたまれなくなり、私はその場に跪いて彼女の肩に手を置いた。
「そのライ麦粉は、伯爵家のものではないのよね?」
「はい。……ムッシュ・バリーが個人で購入なさったものです。わたし、それを使って一日一回、一人分のライ麦パンを焼くように言われておりまして」
「それはバリーに頼まれていたことなの?」
「そうです。使用人用の食事とは別に、ムッシュ・バリーは毎食それを召し上がっておられました。うちの村のはちみつを少し混ぜたら、風味がすごく良くなったってほめて下さって……」
落ち着きを取り戻した様子の彼女と相反するように、私の鼓動は早鐘を打つかのようなリズムを刻み始めた。
バリーの青白い顔、彼が覚えていたらしい指先の違和感。さっきの光景がフラッシュバックし、それはそのまま嫌な予感へと形を変えて私に襲い掛かってきた。
もしかしたら、いやそんなはずは。
思考は脳内でグルグルと奇妙な渦を巻き、呼吸はどんどん浅くなる。私は自分がパニックに陥りそうになっているのを感じながらも、事実をしっかり確認するために、顔を上げた彼女をまっすぐ見つめた。




