3:ホーム・スイートホーム
「そう言えば……今日、あなたを訪ねてきた方がいらしたそうなのよ」
庭から室内に戻り、ダイニングルームへ向かう道すがら、母が思い出したようにそう言った。
「え……まさか私、どなたかとの約束を反故にしたんじゃ」
「安心なさい、アポイントメントはなかったようだから。近くに用事があったから、ご挨拶に寄ったのだそうよ。いつだかのお茶会でお話したことがあるだけだと仰っていたみたいだけれど、覚えはある?」
この頃はあちこちから頂いた招待を余すことなく受けていた、ということはなんとなく覚えているけれど、公爵家が主催のお茶会に参加したこと以外ははっきり思い出せそうにない。
「どのお茶会だったかというのは、仰っていませんでした?」
「ごめんなさい、そこまでは聞いていないの。私も今日は出かけていて、直接出迎えたわけではないから」
「ああ、今日は”夜光貝の集い”の……」
「そう、定期集会! 今回はねぇ、本当に良い情報を仕入れて下さった方がいらして――」
私が水を向けたことをきっかけに、会話は来客のことから今日の集会で耳にしたらしい美容法についてに切り替わったけれど、その内容のほとんどは耳に入ってこなかった。母が結成した婦人会の名前が、自然と口から滑り出したことに驚き、動揺してしまったのだ。
今朝目が覚めた時からついさっきまでは、心も体も前の人生の方に引っ張られているような感覚があったし、記憶だってずいぶん昔のことを無理やり掘り起こしている状態だったのに。
「こっちの時間軸に、意識が馴染んできたのかしら……」
「え、なあに?」
「ごめんなさい、独り言です。それで、ええと……何のお話でしたっけ」
「だから、オリーブオイルで作った石鹸がお肌に良いらしいという話! ……ねえ、大丈夫? 少しお部屋に戻って休んだ方が良いのではない?」
そう問われ、私は慌てて首を横に振った。
「平気です! さっきのアペロだけじゃ物足りないし、久しぶりにお父様とお母様と一緒に夕食を頂きたいの」
「……久しぶり?」
「あっ、いやっ、その……ほら、今日は午後のお茶をご一緒できなかったから、なんだかずいぶん長い時間お顔を見ていなかったような気持ちになっていて」
ダメだ。無意識下では”この頃の私”として対応できるのに、ちょっと注意を払ってしまうと”死に戻り前の私”が強く出てきてしまう。ミラにも私の挙動がおかしいと指摘されたし、このままだと母にまで不審の種を植え付けてしまうことに――
「今日一日でよほど心労が溜まったのね」
母は私を訝しがることはなく、むしろ心配そうな面持ちで私を少し見つめたあと、そっと肩を引き寄せた。
「ゆっくり食事をして、たくさんお喋りしましょう。お風呂の準備もさせるから、カモミール入りの香油でマッサージもしてもらいなさいな」
「あ……はい」
「お部屋にサンダルウッドのお香を焚きましょうね。寝酒はお肌にも健康にも良くないけれど、ほんの少しなら今夜は解禁していいわ」
「んー……うん、そうします。お酒の前にハーブティーを頂いて、それでも寝付けなかったら甘いワインを少し飲もうかな」
「それなら、エルネスト秘蔵のいいワインを空けましょうか!」
「えっ!? で、でも、あれはお父様の宝物で」
「遠慮しなくていいのよ。独り飲みが寂しいなら、私も付き合うから」
アルコール大好きな酒豪の母のことだ、きっと私が心神耗弱状態であることに託けて父に何本か上納させ、全部を空にしてしまうに違いない。父が長年かけてコレクションしたワインを守るためにも、私は今夜ハーブティーでしっかりと寝付かねば。
「ありがとう、お母様。でも私、たぶんハーブティーだけで充分だと思いますから」
「そんなこと言わずに! 指定の銘柄はある? できるだけ高価なものがいいわね。私のおすすめでいくなら――」
「そ、それよりも、お母様がオリジナルでブレンドしたハーブティーが私には一番効くと思うんです!」
「ええー、たまには女同士、酔いに任せてお喋りしましょうよ~」
「酔わなくたって楽しい語らいはできますって! と言うかお母様、先ほど寝酒は体に良くないって仰っていませんでした?」
「体に良くないものってね、心にはとっても良かったりするのよ」
「真剣なお顔で諭そうとしないで下さいまし。そうやって体に悪いことをした翌朝、むくみにむくんだ顔を見てものすっごく後悔なさるんだから」
母とアペロをゆったり楽しんで、その後ダイニングルームに向かう廊下でじゃれ合いながら笑って。こんな風に何気ない時間を過ごしたのなんて、何年ぶりだろうか。
懐かしくも愛しいひとときに再び触れた私は、今日何度目かの涙を必死でごまかそうと、母と腕を組んで長く続く廊下をはしゃぎながら歩いた。
そんなことに一生懸命になったためか、それとも話題がコロコロと変わっていったせいなのか、母から伝えられた来客についてのことは、ダイニングルームに着く頃にはすっかり頭の中から消え去っていた。




