1:マリークロエ・ヴェルレーという人
ルシウス。その名を口にしたとたん、私はあふれる涙を抑えられなかった。
絶望しかなかった人生の中で唯一輝いていた存在、私の大事な大事な一人息子。
やっと思い出した。あの子を失くしたから、私は人生をやり直そうと決意したのだ。
「だから申し上げたでしょう、シィを二度とあの男に会わせるなと!」
号泣しながら屋敷に戻った私を抱きしめ、大声を張り上げたのは、マリークロエ・ヴェルレー伯爵夫人。他でもない、私の母だ。
「あなたは何も仰らなかったけれど、私はとうに存じ上げておりました。公爵家からかなり前向きなかたちでのお見合い話が舞い込んだと、あちこちに吹聴なさっていたことをね」
「なっ……えっ!?」
「私が代表を務める婦人会の情報力を侮らないで下さい。ジュリアン・ド・ラ・サントクロワ公爵がどのような人物であるかも、噂が語る真実によって把握済みでしてよ」
しゃくりあげる私を何かから守るように強く抱き、母が冷たく言い放った。どうやら、私が公爵家で何かひどい扱いを受けたのだと勘違いしているらしい。
「ち、ちが……ちがうの。お母様、私は」
「いいのよ、シィ。あなたは何も悪くない、すべての元凶はこの人にあるのだから」
このままでは父が悪者になってしまう。弁明しなければ、そう思ったけれど、母は体を離そうとした私をさっきよりも強く抱きしめ直し、それ以上何も喋らせてはくれなかった。
こんな風に頭に血がのぼって周りが見えなくなってしまった母は、自然と熱が引くまでもう誰も止めることができない。
それを父も分かっているのか、ホールの固い大理石の床に膝をついたまま、頭を深く垂れていた。
「くだらないことに闘志を燃やすからいけないんです。私の反対を押し切って今日のお見合いを決行なさったのは、私の兄が王家から叙勲を頂いたからでしょう?」
「いや……それはその」
「親友が上げた功績に追随しようとして、公爵家にシィを差し出すなんて言語道断です! 愚かにもほどがある!」
「ごめんなさい!」
耐え切れなくなった様子で、父は足を折りたたみ、床に付けた手に額をこすりつけた。
「深く反省している次第です! ユーリ……いや、義兄に負けたくない気持ちがあったこと、その上でヴェルレー家の社会的地位を上げるチャンスだと発破をかけられ、出世欲に目がくらんでしまいました!」
「素直でよろしい! でも余計に許せない!」
「あれは腹に一物抱えているという君の提言を無視したこと、仰る通りに愚かでした!」
「そうでしょうとも!」
父はその後さんざん絞られ、最終的に今度開催されるオークションで人気の希少ワインを競り落とす約束をすることで手打ちにしてもらっていた。
しょぼくれて自室に向かう父の背中を見送り、私の涙もようやく落ち着きを見せ始めた頃。
「あちらでは、首尾よく振る舞ったのね?」
抱きしめられながら尋ねられ、強くうなずく。礼を失することもなく、ただ不愉快さを与えて嫌われることに成功したのだ。これ以上ないくらいうまく立ち回れたと言っていいだろう。
「父の期待に応えたいという思いもあった中、冷静に状況を見極められたこと、本当に素晴らしいと思います。さすが私の娘だわ」
鼻の奥がジンと痛み、せっかく引きかけた涙がまた視界を歪ませる。
「そんなに泣くと、ミラベルがまた心配のあまり暴走するわよ! ……と言いたいところだけれど、いいわ、今日は思いきり泣きなさい」
「いえ、もう大丈夫です。お母様のおかげで落ち着きましたから」
「そう? ……本当に?」
顔を覗き込まれて、再び大きくうなずいたけれど。
「ああもう、よしよし。家の中では強がらなくていいのよ」
「ごめんなさい、お母様ー! もう少しだけ泣かせてぇー!」
結局、私の涙は日が完全に落ちるまで止まることはなかった。




