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「ねえ、あんた、菊酒の作り方って知ってる?」
夏休みのある日、帰省して間もなく、台所で母に声をかけられた。
「菊酒?」
唐突な質問に、私は聞き返す。
「ほら、隣のお婆さんのことなんだけど。
今、ちょっとボケちゃって、施設に入っているんだけどね。
普段は大人しいんだけど、毎年10月とか11月とかになると、必ず『菊酒が欲しい』って騒ぐらしいのよ。大声出したり泣いたりしてね。家族は宥めてなんとかやり過ごしてるみたいなんだけど、詳しい人がいなくて……。
で、ホラ、あんたがアルコールの勉強会に入ってるって聞いたから、ひょっとして知ってるんじゃないかと思って」
私は思わず苦笑した。アルコール勉強会というのは、実態は酒好きが集まって飲んでいるだけの『なんちゃってサークル』だ。菊酒の作り方など、もちろん知らない。
けれど――「菊酒」という言葉には聞き覚えがあった。
旧暦の9月9日、重陽の節句に飲むと不老長寿になるといわれる酒。菊の花を漬け込んだ、香り高いもの。
そういえば、サリーのオバアは昔から信心深かった。だけど、家族にその信仰を押しつけるような人ではなかった。だから、誰も作り方を知らなかったのだろう。
「菊の酒か……面白そう」
別にオバアのためというわけでもない。ただ、酒好きとして純粋に興味が湧いた。
美味しいのだろうか、それとも青臭いだけなのだろうか。
飲んでみたい。
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翌日から、私は動き出した。
ある程度ネットで当たりをつけると、まずは図書館へ行き、民俗学や酒造に関する本を読み漁る。菊の花は苦みが強いので、食用菊を使うこと。香りを移すには浸漬がよいこと。アルコール度数の高い酒に漬けると保存性が増すこと。そんな断片的な知識を拾い集めた。
次に、近くの酒屋を何軒か回る。安すぎない、ほどよく辛口の清酒を一本選ぶ。
そして花屋で「食用にできますか?」と念を押して、淡い黄色の菊を数輪買った。
帰宅すると、まず花弁を丁寧にほぐす。苦みを抑えるため、さっと湯に通してから水気を切り、瓶に詰める。そこへ清酒をゆっくりと注ぎ入れると、ガラス越しに花びらが金色の海に沈んでいく。
台所の窓辺に並べた瓶を見つめて、私はなんだか不思議な気分になった。これまで酒といえば飲むばかりで、作ることなど考えたこともなかったからだ。
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数日後、菊酒は淡い黄金色に変わり、花びらの輪郭は少しずつ柔らかく崩れていた。
私はそれを一本、母に手渡した。
「これで……まあ、菊酒っぽいものにはなったと思う」
母は嬉しそうに笑い、それを隣人に届けたらしい。
後日、母が言った。
「お婆さん、すごく喜んでたって。施設で、あんたの作った菊酒を持ってピースしてる写真も送ってくれたのよ」
母が見せてくれた携帯の画面には、やせ細ったオバアが写っていた。
髪は白く、頬はこけていたが、瓶を抱きしめるように持ち、笑顔でピースサインをしている。
大分手間がかかったし、結局味見をするタイミングもなかったけれど、まあ、良いことをしたのかな、と、なんとなくぼんやり考えたのだった。




