7. 災難
背後に、タロちゃんが近寄ってくる気配がした。
「……どうしたの?」
彼を振り返りもせず、私は答えた。
「変な人がいる」
「えっ…!」
彼も私と同じように、体を縮めて窓から外を見た。
「ほら……あそこ。向かいのお宅の塀の陰のとこ。男が隠れてるの……見える?」
隙間から覗いていたタロちゃんの顔が強張った。みるみる青ざめていく。
「……知ってる人?」
「あ………多分… 」
「多分?」
「うん…。前にお客さんだった人に、似てるような気がする。でも、ここからじゃ顔がよく見えないから……」
とりあえず、警察ではなさそうだ。
ホッとしたが、続くタロちゃんの言葉に、私は首を傾げた。
「……それに正直、あの人じゃないといいな、と思って……」
「どゆこと?」
「うん、まぁ…ちょっと……色々あって…」
「なに、気になるんだけど。話だけなら聞けるよ?」
「いや……」
彼は気が進まない様子だった。それでも私はしつこく迫り、重い口を開かせた。
どうやら彼は、以前客だった男との間にトラブルを抱えていたようだ。
「谷川……? あー、覚えてるわ。確か、タロちゃんの初めての指名客だった人でしょ。でもあの人、ウチを出禁になってなかった?」
「うん…何回か会ってるうちに、店を通さず直接会いたい…って言われるようになってさ。そういう人はよくいるから、俺も『お店に連絡くれればいつでも会えますよ』って誤魔化してたんだ。でも、あの人、とにかくしつこくて……。仕方ないから、マネージャーに相談したんだ」
タロちゃんの言葉に、その男がマネージャーに締め上げられている姿が目に浮かんだ。
「そりゃ仕方ないよね」
「うん…。それでもう指名はないと思ってたんだけど、どうしても俺がいいって言ってきたみたいで。その後は、元通りおとなしかったんだ。でもしばらくして、ホテル行った時に………その……、してる時、無理矢理、写真を撮られて……」
「ゲッ!」
「それで、言い争ってたら、ちょうどスタッフが迎えにきてくれて。……その時はすぐフィルムを回収できたから、まぁそれで終わりにしたんだけど…。さすがに……ね」
「キッモッ‼︎ そりゃブラックリストに入るわ。そんな変態に絡まれるなんて、タロちゃんも災難だったね……」
「うん…、……」
「…ちょっと? まさか、まだ続きがあるの?」
言いながら、自分の腕にゾクッと鳥肌が立つのを感じた。
「うーん……。…なんかね、多分だけど…、俺、あの人に付きまとわれてる……のかも」
「はっ? マジ?」
「俺ン家の郵便受けに、切手の付いてない手紙が入ってるんだ。……ほとんど毎日」
「えっ」
タロちゃんは動揺を抑えるかのように、視線を床にさまよわせた。
「でも、なんで俺のアパートを知ってるのか、わからなくて…。どこに住んでるとか、そんな話はしたことがないから……」
「お店からの帰りを、尾行られたとか?」
「そう、なのかな……。全然気付かなかったけど」
「それで……その手紙って、どんなことが書いてあったの?」
タロちゃんは節目がちになると、手をギュッと握りしめた。少し震えているように見えた。
「……いろいろ。どこどこに一緒に旅行に行こうねとか、一緒に暮らす部屋を探してるとか……、別の日には、インランとかバイタとか……俺を罵る言葉がいっぱい書いてあったり……」
「ええー…っ」
「…あと、俺が他のお客さんと歩いてるときの写真が入ってたこともあって……、『裏切り者』って、でっかく赤い字で……」
「怖…ッ…! それ、もう警察には言った?」
彼は首を横に振った。
「なんで⁈ そんなのもう、立派に脅迫じゃん!」
「だって…。俺が勝手にあの人じゃないかなって思ってるだけで、あの人がやってるって証拠は、何もないし。それに、恥ずかしくて言えないよ………『原因に心当たりはあるのか』とか。『どこで出会ったどんな関係の人なのか』とか……。警察にいろいろ聞かれたくないし…」
それどころじゃないと思うが、彼の気持ちも分からなくもなかった。
「マネージャーには? もう相談した?」
「うちに届いた手紙だし、時間外の話になるんだけど、……相談してもいいかなぁ?」
「するべきでしょ!」
敵に回すと怖いが、味方であれば心強い。店の売り上げに貢献しているタロちゃんのことなら、きっと守ってくれるに違いない。
マネージャーなら常人にはできないような方法で、こんなトラブルはあっさり解決してくれるはず。……そんな、確信めいたものを感じていた。
「大丈夫、きっとなんとかなるよ! でも……、もしも本当に危ないと感じたら、すぐに警察に行くんだよ?」
うん……と彼は小さく頷いた。
それが、彼との最後の会話になるなんて。
その時は、思ってもみなかった。