6. 気配
◇◇◇
街路樹のイチョウが黄色く色づき、天高く突き抜けるような青空の季節が、また巡ってきた。あれから、一年が経った。
私は三年生になった。始める際に『数ヶ月だけ』と言われたはずのアルバイトは、気がつけばまだ続けていた。世間的にアウトな職場だという自覚はある。でも、すっかりその環境に慣れてしまった私は、やめる勇気もないまま、だらだらと居座っていた。
『タロちゃん』もまだ店にいた。
若さがものをいうこの世界で、彼はしっかりと生き残っていた。苦手と言っていた接客も、いまやすっかり慣れたようだ。私の予言通り、彼の素朴な優しさや気遣いを知った多くの客が癒しを求め、彼のリピーターになった。順調に指名を伸ばした彼は、今や店でも一、二を争うほど人気のボーイへと成長していた。
◇
誰かに見られている。
私は玄関を清掃する手を止め、顔を上げた。
「………」
しばらくあたりを見回してみたが、人の気配はない。
気のせいだろう……。そう自分に言い聞かせてホウキを持ち直し、落ち葉を集めはじめる。けれど、胸の奥にわずかなざわつきが残ったままだった。
アパートの敷地にはサツキの垣根がある。その周囲には、しばしば缶やビンがポイ捨てされていた。腹立たしさを抑えながらゴミ袋に拾い集めていると、ふと表紙の破れたゴシップ雑誌が目に留まった。風に煽られ、ページがパラパラと音を立ててめくられていく。
『ダムに男性の右腕』
『平成のバラバラ殺人鬼。犯人像に迫る!』
気味の悪い見出しが目に飛び込み、思わず大きくため息をついた。
一九九一年といえば、バブルの崩壊が確実となった年だ。日本全体がどんよりと、重苦しい空気に覆われていた。不況は人の心を荒ませる。人々の不安に呼応するように、各地で妙な事件が起きていた。
両親が私の帰宅時間に口を出すようになったのも、無理からぬことだった。「夜道は危ないから」と門限は十八時に引き下げられ、私はアパートで過ごす時間を大幅に削られてしまった。だが、限られた時間であっても、やるべきことは変わらない。
そんな慌ただしい日々を送りながらも、私はときおり、説明のつかない違和感を覚えるようになっていた。
ここ数日、アパートの周りで妙な気配を感じる、ような気がした。誰かに見られているような感覚……。
不穏なニュースや街の空気に影響されて、神経質になっているだけかもしれない。
そう思う一方で、別の考えがふと脳裏をよぎった。
(まさか……警察?)
途端、ドキッと心臓がはねる。高三の秋だ。妙な事件に巻き込まれて、将来をめちゃくちゃにされたくはなかった。
このアパートがどういう場所なのか、叔父がどういう人間なのか…、それなりにわかっているつもりだった。表向きには“事務所兼住居”ということになっているが、実際には、物騒な男たちが頻繁に出入りし、大金が動く。その金の流れがどこに繋がっているのかも、うっすらと想像がついた。
……なにかの捜査が始まっていても、おかしくない。
知らぬ存ぜぬを主張したとしても、ここで働いていたという事実が将来にプラスになることはないだろう。
何気ないそぶりでホウキを片付け、アパートの二階に上がった。203号室のドアをノックする。
「ちょっと失礼しますよっと」
そう言ってから、玄関横の小窓を少し開けた。この場所からなら、アパート前の道路を見下ろすことができた。
「……どうかした?」
「うん。ちょっとね…」
不思議そうに見つめてくる視線を尻目に、私は数分間、じっと外を見続けた。
そしてようやく、やっぱり気のせいだったか……と、気を抜きかけた、その時。一人の男がアパートの前を徒歩で通り過ぎた。ただの通行人かと思われたその男は、しばらくしてまたアパートの前を通過した。そして数分後に、また……。繰り返しアパート前を往復しながら、チラチラと建物を窺うような動作が見える。私の心臓が、バクバクと大きく脈打ち始めた。
何度目かの往復で、ついにその男は向かいの建物の塀のそばで立ち止まった。徐々に薄暗くなってきた周囲に溶け込むように、身を潜ませている。
──明らかに挙動不審だ。
私は男からは見えないように身を屈めながら、男の特徴を記憶する。中肉中背。三十代前半くらい。黒髪、ボサボサ頭、黒縁めがね。ケミカルジーンズに黒のジャンパーを身につけている。……顔や体つきに大きな特徴はない。だが、全体的に姿勢が悪く、じっとりとこちらを見つめる表情には、なんともいえない陰気さが漂っていた。