3.選べない選択
◇◇
「美佳ちゃん、がんばってるね」
アパート前の掃除をしている私に、ダークグレーのスーツ姿の男が話しかけてきた。この店のマネージャーであり、私の叔父。気付いた瞬間、私は無意識にピシッと姿勢を正していた。
「どう? なにか困っていることはないかな?」
優しげに微笑みながらそう声をかけてくる。
「ハイ、おかげさまでなんとかやらせていただいてます!」
「そんなにかしこまらなくていいよ。どう? 最近の子達、君にわがまま言ったりしてきてない?」
「ハイ、いい人たちばかりです!」
「そう。じゃあよろしくね。またあんまり舐めたやつがいたら教えてね?」
教育するから……そういって、叔父は若い男を一人従えて、アパートの中へと入っていった。
姿が見えなくなった途端、ほう…っと息が漏れる。知らない間に、体中の筋肉がガチガチにこわばっていたようだ。
私にこの仕事を紹介したのが、この叔父だった。祖父の法事で本家に行った日のこと。初対面だった私に、叔父がアルバイトの話を持ちかけてきたのだ。
「美佳ちゃん。お小遣い、稼ぎたくない?」
唐突に叔父(父の弟)に声をかけられた私は、氷水をぶっかけられたように背筋が冷えたことを覚えている。
「えっ…アルバイト、ですかぁ?」
不自然にならないようにニコニコしながら、首を傾げた私に、叔父も人の良さそうな笑顔で
「うん。美佳ちゃんの高校はバイト禁止じゃなかったよね」
と、言った。
「ちょうどお年頃だし、親からもらうお小遣いだけじゃ足りないでしょ。俺の紹介だから、それなりにいい時給を出してあげられると思うんだけど、……どう。やってみる?」
「えーっ。ホント?叔父さんてば優しい!……でも、あたし馬鹿だから、これ以上成績落とすと留年しちゃうかも。お父さんにやってもいいか聞いてから、返事してもいい?」
非常に曖昧で、やんわりとした断り文句を口にする。叔父の気分を害さないよう、精一杯の意思表示をしたつもりだった。
叔父は、見た目こそ柔らかな物腰の紳士だが、昔は相当“やんちゃ”だったらしい。地元では「キレたらヤバい奴」と有名だったそうで、その頃からその筋の大物に可愛がられていたとか、なんとか……。今ではもう、“そういう世界の人間”として、上へ上へと順当に進んでいる。父からは耳タコなほど聞かされていた。『お前は決して関わるんじゃないぞ』…、と。
喪服姿の叔父は、柔らかな微笑みを浮かべながらタバコを咥え、ライターで火をつけた。
「そうかぁ。でも、すっごく簡単なお仕事だよ?」
父が遠くから心配そうにこちらの様子をうかがっている。母に脇腹を肘で突かれ、渋々立ち上がると私たちのすぐ近くに来た。
「……美佳も来年は三年だから、そろそろ受験勉強に本腰いれなきゃいけない時期だからなぁ……」
父からの助け船に、私はコクコクと頷いた。
「そう、そろそろ本気で勉強しないと……!」
「あ、そう。じゃあ今がチャンスだねぇ。三年生になったら忙しくてアルバイトなんてできなくなるでしょ?」
にっこりと叔父が笑って、「ねぇ、兄さん」と父を振り返る。たちまち、父の顔が青ざめた。それを見て──、私は観念した。
「どうかな、美佳ちゃん。他の人が見つかるまでの、ほんの何ヶ月かでいいんだけど……?」
穏やかに話を続ける叔父の背後で、父がよろよろと立ち上がる。すごすごと戻ってきた父を、母が射殺しそうな顔で睨み付けていた。叔父の声は優しかった。だが、薄く色のついためがねの向こうの目は笑っていない。私に選択権はなかった。
どんなヤバい仕事をさせられるのかと、戦々恐々としていたのだが……。いざやってみれば危険な目に遭うでもなく、拍子抜けするほど穏やかな内容だった。
社員と呼ばれる人々は皆、ただならぬ雰囲気を纏わせた方々ばかりだったが、みな優しく紳士的だった。私が叔父の親類だったから、かもしれないが…。
ボーイと呼ばれる男の子達も、明るくて礼儀正しい子がほとんどだった。客商売という点で、ある程度人間性がしっかりしていないと、こなせない世界だからなのかもしれない。
もしくは、叔父の言っていた「教育」が行き届いているためだったのか…。
あの場で一番年下だった私は、皆からなんやかやと用事を頼まれた。まさしく小間使いのように駆け回っていた。
まぁ、その後はお駄賃をもらったり、お菓子をもらったりしていたので、そう悪い気はしなかった。