2.ローズクォーツの管理人
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一九九〇年一〇月。
バブル景気の絶頂に浮かれていた日本が、じわじわと底の見えない暗がりへ沈みはじめていた、あの頃。
当時高校生だった私は、都内のとあるアパートの管理人をしていた。
……とはいえ「管理人」なんて肩書きは名ばかりで、実際は掃除と雑用ばかりの、ただの小間使いだった。仕事内容はいたってシンプル。アパート周辺と共用部の掃除、それに、時々ちょっとした用事を片付けるだけ。その上、アパートの一階には、(物置も兼ねていたが)『管理人室』として一室も与えられていた。学校帰りにふらっと寄っては、のんびり過ごすにはもってこいの場所だった。
仕事がひと段落すると、私は部屋に備え付けのテレビの前に座り込んだ。二十五型のブラウン管テレビの中では、刑事たちが派手に走り回っている。けれど、ボリュームを絞った小さな音では、どうにも迫力に欠けた。それでも、小言ばかりの実家にいるよりはよっぽどマシだった。誰にも邪魔されず、誰にも口出しされない──そんな自由をいいことに、私は、気づけばずいぶん長い時間あのアパートに入り浸っていたものだ……
───
四畳半の部屋の中、固定電話がけたたましく鳴り響く。私は慌ててテレビを消した。注視する私の前で、子機は三回ほど鳴ってから沈黙した。隣の一〇二号室から、落ち着いた男の声が応答するのが聞こえてくる。……ほーっと息を吐いて、私は再びテレビのリモコンを手に取った。
築数十年、木造二階建てのオンボロアパート。壁は薄く、隣のくしゃみや話し声など全て筒抜けで、プライバシーなんてものは存在しない。話し声が聞こえなくなるとすぐ、外階段をカンカンと上り下りする足音が響いた。ドアの外では、「だるぅ〜」という若い声と、それを急かすような低い声が交錯している。やがて車のドアが閉まる音、砂利を跳ね上げるタイヤの音が続き、次第に遠ざかっていった。
今日は、花の金曜日だ。ウチにかかってくる電話も、平日に比べて格段に多い。
「繁盛していて、結構けっこうコケッコー。……なんちゃって」
そんな独り言をつぶやいた矢先、再び電話が鳴った。三コールしても誰も出ない。私は小さく舌打ちし、仕方なく子機を手に取って通話ボタンを押す。
「はぁい、お電話ありがとうございます。『ローズクォーツ』です♪」
普段の管理人の仕事のほか、任されている業務の一つが、これだ。もしも手が足りず、誰も電話に出られない場合は電話対応をするようにと依頼されていた。受話器のむこうから聞こえてくるゴニョゴニョとした男の声に向かって、マニュアル通りの台詞で案内を始めた。
「あのー、お客様ぁ、当店のご利用は初めてですか? はい、はい……、あー、そうですか。いえいえ、ご了承いただけていれば、会員様でなくても大丈夫ですよ。時々イタズラ目的のお電話をいただくことがあるものですから、念のためそう書いてあるだけですんで。
えっと、今はホテルからお電話いただいてます?……五反田の……『ザ・ロマン大陸』ですね? はぁい、承りましたぁ。ではそのまま、お部屋でお待ちくださぁい。それで、どのような男の子をご希望ですか? …………はい、はい、…ああー、あの、アイドルグループの? かーしこまりましたぁ。それではすぐに派遣させていただきますので、到着まで少々お待ちください。ご利用料金は、当店は先払いシステムとなっております。到着時、スタッフにお渡しください。…………はい、お願いいたします。それでは……失礼いたしますぅ」
電話を切ると、急いで隣の部屋に行き、棚の中にあるファイルを開いた。『従業員名簿』と書かれたそれには、顔写真と簡単なプロフィールが記された紙が閉じられている。私はパラパラとその書類をめくった。写真を見て、先ほどの客の要望に一番近いと思われる男の子をピックアップする。
……ローラースケートで歌って踊るアイドルグループの一員に、一番似ていると思われる子を。
「うーん……。ま、コイツでいっか」
雰囲気が一番近いと思われる少年を一人選び出すと、外へ出る。アルミ階段を上り、彼が待機している203号室へと向かった。
このアパートに住んでいるとされる人たちは、実は全員がある店に雇われた者たちだ。
実際には住居というより、仕事の前に待機するための場所として使われていた。
形の上では「事務所兼住居」として正式に借り上げているらしいが、出入りする人間の数が多ければ、それだけトラブルの種にもなる。だからこそ、近所の目には細心の注意を払うよう、きつく言い聞かされていた。
……まあ、ただのアルバイトの私には関係ないことだけれど。
203号室のドアをノックして、ノブを回す。この時間帯、どの部屋にも基本、鍵はかかっていない。
「お仕事でぇーす」
ドアを開けるなりそう声をかける私を、ソファで雑誌を開いていた少年が、緊張した面持ちで見上げてきた。
「……って、あれれ〜? この部屋に残ってるの、タロちゃんだけ?」
通常、一部屋には二~三人が待機しているはず。なのに、少年は一人だった。
「うん。先輩達にはもう指名が入ったから」
「そっかあ。タロちゃんにも、はやく固定客がつくといいねぇ」
男の子達の取り分の詳細はよく知らない。だが、指名客とそうでない客との料金には、それなりに差があると聞いたことがあった。何の気なくそう言った私に、彼はかすかに苦笑いを返した。
「……それで?」
「あ、そうそう。さっきね、初回の客から電話があってね。五反田のホテルなんだけど、送迎車は出払っちゃってるみたいだから、電車でいってくれる?」
「わかった。五反田だね」
「じゃ、交通費込みで客に請求してね。あとはねぇ、その客、ジャ○の■▲くんみたいな子がいいって要望だったからさ。なんかそれっぽい感じで、よろしくぅ!」
客の要望を伝えた途端、青年は目に見えて動揺した。
「ちょ、美佳ちゃん? なんでその要望で、俺に仕事振り分けちゃうの…? もっとふさわしい人が他にいるよね?」
「大丈夫だよぉ。タロちゃん、顔の造りは悪くないんだからさ。もっと陽気にニコニコしてれば、絶対いけるって!」
「……そんな簡単に…。ホテルで会った途端、がっかりした顔されると結構傷つくんだからね…?」
などと、泣きそうな顔でいう彼の背を、バンバンと強めに叩いて部屋の外へと送り出した。
「タロちゃん、ふぁいとー!」
手を振る私を振り返り、彼は小さく頷いた。駅に向かってとぼとぼと歩き出した彼の背中を見送る。その頭とお尻に、しょんぼりと垂れた耳とフサフサの尻尾が見えるような気がした。
まだ携帯電話もPHSもなかった時代の話だ。街中には、連絡の必須手段として数多あまたの電話ボックスが設置されていた。
今の常識では信じられないかもしれないが、当時の電話ボックスのガラス面といえば、ピンクビラなる卑猥なチラシでびっしりと覆われていたものだ。あられもない女性の写真と露骨な煽り文句、そして連絡先の電話番号。その多くは、ホテヘル(当時はホテトル)と呼ばれる出張型風俗店のものだった。客がチラシを手にラブホテルへ入り、そこから電話をかける。すると相手が出張してくる──、という仕組みだ。もちろん管理売春にあたるため違法行為だが、こうした店は電話番号を頻繁に変えるなどして摘発を逃れていた。初期費用が抑えられることもあり、当時は相当数のホテヘルがひしめき合い、熾烈な競争を繰り広げていたという。
そんな激戦区の中にあって、私が勤めていた店は、周囲の苦戦をよそに安定した売り上げを保ち続けていた。集客方法は他と変わらない。電話ボックスにチラシを貼る、あのやり方だ。違っていたのは、売り出していた“顔ぶれ”だった。
『ローズクォーツ』 出張専門(会員制)
tel 03-■■■ー■■■■■
マッチ箱ほどの小さなチラシに印刷されていたのは、スリムな若い男性の上半身。豊かなバストやヒップを誇示する女性たちのビラにまぎれ、それはまるで、大輪の薔薇の中にひっそりと咲くスズランのようで──妙に目を引いたのを覚えている。
毎夜、若くて可愛い男の子と遊びたい、という欲を抱えた男達からの連絡が絶えることはなく、私は社会科で勉強した需要と供給の社会構造を、なんとなく思い出したものだった。
作中、さらっと間違ったことを言っていたりしますのでご注意ください。……フィクションですので……