1.金木犀の香り
目をとめていただきありがとうございます。
「私、キンモクセイの香りって苦手なのよねぇ……」
そう言った私を、近所の奥さんがカウンター越しに無言で見上げてきた。『…で?』とでもいいたげな顔をしている。沈黙に促され、私は続けた。
「あの花って、木がどこにあるのかわからなくても、香りで気付くくらい匂いが強いじゃない?」
「あぁ……まぁ、そうね」
「この近所にも植えられてるみたいで、花の時期は窓なんて開けられたもんじゃないのよ」
「ああ、珈琲の香りを邪魔しちゃいますもんね?」
得心がいった、とばかりに頷く奥さんに、私は首を横に振り返した。
「ううん。確かにうちは喫茶店やってるけどね、そんな理由じゃあないの」
奥さんは戸惑った顔で、目の前のアイスコーヒーのストローをくるくると回した。
それもそのはず。いままで、自身の体験談を黙って聞いてくれていた相手が、唐突にこんな話をし始めたのだから。こんな顔をしたくもなるだろう。
「香りって、人間の記憶と深く結びつくっていうじゃない。ほら、なんだっけ? あの……ナントカ効果っていう……」
ここでさらりとその言葉が出てくれば、いかにも知的なのだが。どうにも、年齢を重ねるうち必要な言葉がスッと出てこなくなってしまった。私はもどかしさに、トントンとカウンターを軽く叩いた。
「ホラ、『昔の恋人と同じ香水で、その人のことを思い出す』……なんて歌が前に流行ったじゃない。それと同じでね。私はキンモクセイの香りがすると、ある人のことを思い出しちゃうの」
奥さんは、ああ、とかうーん……とか。曖昧につぶやきながら細い指でストローをつまみ、先端に唇をつけた。氷が崩れて、カラン……と涼しげな音をたてる。
グラスの周りにたっぷりとついていた結露が一滴、つうっと伝い落ちる。紙製のコースターに触れた瞬間、すっと消えるように吸い込まれていった。
同作品をpixivにも掲載していますが、こちらでは初投稿です。慣れない点も多いと思いますが、よろしくお願いします。