冬の植物園のメロディー
3話(https://ncode.syosetu.com/n7462km/3/)の回収、続きです
「……そんなに笑わなくてもいいと思わない?」
「無理。まぁカタリナもゲラなんだけど、私だって最初聞いた時バカほど笑ったし。2着だよ? 今どきちょっとした商家の子だってそれくらい買うわ。そんなんマジメに懺悔されたって夜番の修道師の方が困る」
「……世の中ではそれくらい普通ですよって言われたわ……」
「ごめんなさい、もう、許して」
雪月の終わり、冬の最中の薬草園でのことである。
笑いすぎて涙を拭う級友の姿に、ハリエットは一瞬、情けない顔で眉を下げて──それから肩をすくめて笑った。ほんと、冷静に考えてみると自分でもどうかと思う。
近侍に唆されるまま、勢いで裁縫室長とピーテルの提案を両方仕立てることに決めた日。私室に戻ってから少女は、急激な不安に襲われたのだった。「虚飾の罪では?」と晩課の礼拝堂に駆け込み、夜番の修道師に真顔で相談して、心の底から困惑されてしまう。
──それは、罪というより、成長では……?
いかにも人の良さそうな老修道師の、困りきった下がり眉を思い出すと、顔から火が出そうになる。本当におっしゃる通りである。ちょっと落ち着いた方がいい、私。
「──ああ、面白かった。ヘーゼさん、もっと大人っぽくてしっかりしてる人かと思ってたけど。親近感」
「ハリエットでいいわ。全然しっかりしてないわよ。邸の侍従長には今も怒られてばっかり」
「ふふ。じゃあ、私のこともカタリナと」
カタリナ・ファン・レイホーヴェ。夜空のような紺碧の髪を肩ほどに切り揃えた、仔鹿のような目をした可憐な少女だ。
リュドミラと仲がいいことは知っていたけれど、ハリエット自身は、一対一で話した記憶があまりない。困った時にそっと助けてくれる妖精のような人だと思ってはいたけれど──通算8ヶ月ほどの学院生活の中では、“聖女”としてもあまりに有名な特待生のハリエットと級友たちの間には、ほんの少しの壁がしぶとく残り続けていたのも確かだ。
「なに、あんたらまだそんな感じなんだっけ?」
「ミラが誰とでも仲良すぎなのよ。侯爵家のご令嬢を呼び捨てにした時は心臓が止まるかと思ったわ」
「呼び捨てでいいって言われてんのに、逆らう方が失礼でしょー」
ガラス張りの温室で、石のベンチに背中を預けながら、リュドミラはあっけらかんと言って伸びをした。いつもながら、この親友の度胸と処世術には舌を巻く。ふとカタリナに視線を向けると、帆リスみたいに丸く見開いた目と目が合った。
どちらからともなく、ぷっと吹き出す。
カタリナを、この修道院外郭と伽藍の狭間にある薬草園へ連れてきたのもリュドミラだ。商会がかけている舞台を王都からはるばる観にきた彼女に、「ハティん家行くけどくる?」と軽く声をかけたらしい。
今季のトレンレーツ商会の冬興行は、いつもの聖歌劇団ではなく、王都から南東に降った国境にある小国、ブルメルー公国から招かれた楽団なのだそうだ。
名を「リュミエール楽団」という。
ハーフリングの国であるブルメルーから招かれた実験音楽集団である。トレンレーツ商会が全面的にバックアップした巡業がヘーゼを訪れ、招待を受けたハリエットが貴族向けの桟敷に足を踏み入れたら、最前列にかぶりつきで観ていたのがこの王都政務官の娘だった。
なんでも、ずっと追いかけている推しがいるらい。
「それにしても」
「気づかないわねえ……」
腕組みをしたり、膝の上に積んだ本の束に頬杖をついたり、思い思いのしぐさですっかりくつろぎながら、友人たちはほんの二、三メートル先、温室の中央を見つめている。その視線の先──中央の湧水盤の前で、文書官の見習いみたいなこれといって特徴のない身なりの少年が、床に直接腰を下ろしてじっと考え込んでいた。ゆるやかに盛り上がる温水の畝の傍には、真っ黒なゼリー状の半透明の個体がのんびりと浮いている。
すい、と、意志あるもののように泳いでは、気が済んだように静止し、またふとした拍子に泳ぎ出す。不思議な挙動だ。
「ああなったら、よっぽどのことがないと日が暮れるまで気づかないわ。耳元で思いっきり声を出してやっと我に返るかも」
「戦乱の世だったらとっくに生きてないな」
最近は戦記ものに凝っているらしいリュドミラが、訳知り顔でそんなことを言った。確かにそうかもと、ハリエットも想像して真顔になってしまう。何かに集中すると簡単には戻って来れなくなる人が、思う存分思索に没頭できるような、平和な世の中でよかった。
特徴のない少年──繰り返すが、ハリエットは別にそうは思わない──コーネリアスが凝視しているのは、ごく最近州内のある湿地で発見された、新種の魔法生物である。
生態も外見も完全にスライムなので、便宜上そう呼ばれている。未採掘の泥炭の中に無生物のような顔をして紛れていたため、最初はタールやピートの一部だと思われていたそうだ。安直だが分かりやすいという理由から、「タールスライム」というのが差し当たりの呼称である。
空間魔法と玄武石を利用した温室の中央の一角は今、媒染や繊維植物が寄せ集められ、新種の生物のための区画が設えられている。司教領エルトゥヒトの南端、ヘーゼ領からは完全に外れた湿地で発見された生物を、なんとか栽培できるようにしたいというのが現在の課題だった。
生物の扱いに不慣れな彼を捕まえて、例によって有無を言わさぬ“湖の魔女”が「やっといて」と無茶振りした結果だ。振られた本人が意外と楽しそうなので抵抗はしなかったけれど、本当に強引だと思う。師匠は相変わらずだわ。
「ハリエット……は、学院でもよくそんな風に言ってたから。仲がいいんだなとは思ってたけど」
仔犬みたいな愛らしい女の子が、初々しく名前を呼んでくるので思わずキュンとしてしまったけれど──それはそうとして聞き捨てならない言葉に、ハリエットは勢いよくカタリナを振り向いた。ハーフアップの紙に挿した櫛が、チリリと高い音を立てる。
「私たち、仲良さそうだった!?」
「これ本気で言ってるからねこの子。私もこの二人がこんなんなるとはさすがに思ってなかったけど、普通に仲は良かったでしょ。逆に何だと思ってたんだよ」
「そうねえ」
呆れたように混ぜっ返すリュドミラの言葉を受けて、カタリナもおかしそうに笑った。
「私たち魔力量は近いから、実技のクラスは一緒なんだけど。シュピーゲル君が私のことを認識しているかどうか自信がないわ」
「さすがにそれはないんじゃない?」
「そうかしら。とりあえず、確かに誰にでもすごく親切な人ではあるけど、ハリエットへの態度は他の人とは違ったわよ、ってこと」
「そうなんだ……」
改めて言い直されると、気恥ずかしくなってしまった。頬が熱くなるのが分かる。
──コーネリアスは、私が学院にいたら嬉しい?
思ってもみなかったことだから、あの時は本当にびっくりしてそう問うたのだ。同じくらいびっくりした顔に、「そうだよ!?」と返されたことはまだ記憶に新しい。
──知らなかったことが信じられない。
そんなものかしらと、最初は思っていた。その感情がどう整理されていたかは別として──名前で呼び合うことにも躊躇いがあったような距離の級友の目から見ても、ずっと前から特別な位置にいたのだと思うと、泣きそうに嬉しかった。
真っ赤になって黙り込んでしまった友人に目を細めて、カタリナは抑えた声で笑った。
「大好きなのね。あの人のこと」
咄嗟に声にならなくて、ただ大きく頷いた。木笛みたいな柔らかい声が、かわいい、と笑う。可愛いのはこの子の方だ。上品でちょっと内気な室内犬みたいにわしゃわしゃと撫で回したくなる。
「埒開かねーなコレ」
じゃれている友人たちをよそに、待つのにも飽きたらしいリュドミラは、おもむろにつかつかと湧水盤へ歩み寄って行った。すぐ傍に立たれても、全く気づいた素振りのないコーネリアスの横にしゃがみ込み、手を拡声器にして大きく息を吸う。
「──わっ!」
「……!?」
絵に描いたようにビクッとした少年は、勢いで後ろに倒れそうになって慌てて手をついた。色差の大きいオッドアイをこれ以上見開けないというほど見開いて、声のする方を見上げる。
「……びっ……くりした……」
「あんた、いつも私に驚かされてない?」
「そう思うなら、普通に声をかけて欲しい……」
「普通に声かけて気づく程度に周り見ろよ」
「……それはごめんなさい」
「まぁ今回は初手からいきなり叫んだんだけど」
悪びれもせず言われて、コーネリアスはなんとも複雑な顔をした。「えぇ……」と心底困惑した様子でうめいている。
それから──奥のベンチに腰かけているハリエット達に目を留めると、
「ハリエット、来てたんだ。レイホーヴェさんも」
と、言った。
穏やかに笑んでいたカタリナが、黒目がちの大きな目を丸くする。
ね、そんなことないでしょ──と、ハリエットは黙って友人の背に手を添えた。人間界全般に興味がないようでいて、こういう瞬間だけは外さない人なのだ。本当に恐ろしいことに。
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