Good Monig
9/17夜の更新です。下書きになってた!なんたる!
(9/18 7:43)
「やれやれ。ちと放置しすぎたな」
ため息とともに、老人は舞い上がった埃を手で払う。
王都ゲサンの市街地の中心、大聖堂と教会の間にある魔法使いの「塔」である。最上階の鐘室の直下、天輪区画の奥にあるのがオットフリートの研究室だ。
旧研究室──というべきか。
20代半ばでいくつもの世界的発見を成し遂げ、30歳もそこそこに北海の王領ネヴ島を下賜された気鋭の天文学者は、その時からほとんどの研究機能を島の天文台に移している。
今でも王命を拝することはあるし、その他の機会で王都に立ち寄ることもあるため完全に引き払ってこそいなかったが──もう20年以上前に時間が停止したきりの部屋は、そのまま博物学の資料にできそうな古い設備や道具が文字通り埃をかぶっていた。
背高帽を椅子の背もたれにひっかけ、脱いだマントを軽くたたんでその脇にかける。クラバットも外してしまうと、書斎机に積まれた革表紙の本の上に流れるように置いた。
麻袋のように担いでいた子供を、マントのかかったハイバックチェアにひょいと降ろす。
「ふむ」
薄く埃の積もった床に直に腰を下ろすと、老人は丸頭のついた人工的な杖の先を、とん、と床についた。
フォウッ……
丸窓から差す光の中を、魔力波に巻かれた埃がきらきら舞い踊る。
秤の上から、¹∕₃インチの真鍮の分銅をつまみ上げた。これが360個並ぶとなると──。
──単純計算で10フィート。
実際には、物体同士がゼロ距離で並ぶということはない。分銅そのもののサイズの誤差もある。適当に2インチほど足して、銀線の正円を床に配置した。伝導率の良い素材であれば、任意の幾何学模様に吸着することのできる定位の魔法だ。カテゴリとしては空間魔法にあたる。
──次に基準粒。
直径3フィートほどの正円の内側、銀線の継ぎ目の部分に真鍮の分銅を置いた。床に置いてあった杖を手に取り、両手のひらの間で水平に倒す。
青白い光が円周を甜めるように走った。1拍置いて、360個の分銅がオートメーションのように列をなす。
銀と真鍮、鉄と銅、金と青銅など──特定の金属との組み合わせも、定位魔法による高度なコントロールを実現する素材である。「隙間なく並べる」という指令に、接している銀線への吸着という条件を重ねがけすることができる。
導線の径と分銅の配列を、相互に読み合いながら調整していく。
やがて銀の正円の中に、円筒型の錘が整然と並んだ。
空間魔法による配列には、魔導素材同士や幾何学模様とのペアリングに加え、もうひとつ利点がある。マジックバッグに応用されている技術と同じ「保全」が効くようになるということだ。相応のコントロールは必要とするが、符号を立てた時点の状態が静止状態で一定時間保持される。
ᛇᚣᛉᛁ ᚦ
宙空に走り書きした文字が青白い光となり、並んだ分銅ごと正円の上を一周した。これでこの状態は術を解くまで崩れない。術者の気力次第──などという上限設定は、オットフリートのように物心つく前から赤子向けのおもちゃを宙に浮かせて家人を失神させていたような種類の人間にとって、ないも同然だ。
新品のチョークをおろした。円の垂直に1本、水平に1本まっすぐに線を引く。2本が交わる中点が、この術の心臓である。
別の錘をつまみ上げようとして──少し考えてから、散らかった書斎机に歩み寄る。壁際に放り出してあった櫃を開けると、中から携帯用のチェス箱を取り出した。
コン。
節くれ立った指が、中心の接点に真鍮の塔を置いた。駒を中心に、2本目の銀線がしゅるしゅると回転しながら広がる。やがて外円の8掛けほどのサイズの円が埃の中に収まった。完全に同心円だ。
青白い光が、ふたたび床の上の陣を走った。最新の状態に更新して、保全を上書きする。
不意に視界の片隅で何かが動く。オットフリートが振り向くと、椅子から這い降りた幼子が、小さな手を伸ばして分銅の持ち手をぐいぐいと引っ張っているところだった。錘の群れが微動だにしなくなっていることに、いたく驚嘆しているようだ。眠そうだった目がキラキラしている。
「状態保全の空間魔法だ。お前が乗っかった程度ではびくともせん」
「すごい」
「たいして凄くはないな。魔力さえあれば、こんなものは誰でもできる」
そんなことより──。
弄んでいたチョークを握り直す。立ち上がった老人は、つかつかと外円の銀線の継ぎ目まで歩み寄り、ふたたび床に膝をついた。
隙なく並んだ分銅の間に、ひとつ、ひとつ、真新しいチョークで目を打って行く。
カツッ……カッ……──
床板と練り固めた石灰が鎬を削る音が、塔のてっぺんの部屋に響き渡る。
「人が線を引く場合」
一心不乱に錘の間に短い線を引きながら、オットフリートは聞いているのだかいないのだか判然としない子供に語りかけた。静かな子供だ。ほとんど虚空に言葉をかけ続けるのと変わらない。
「幾何でできることを、愚直になぞっていくしかない。まず円を二等分して、それをまた等分する。正三角形を円に内接させる線を加えれば、それで六等分だ。さらに等分して──理論上は、360等分まで求めることができるが、人が手で描くことを考えると、到底実現可能な手法ではない」
「なんで?」
「中心の、ほんの小さい円で割っているからだな。細かく割れば割るほど、物理的に線が重なってしまって何も見えん。かといって、外周を割るための基準も式もない。これまでは、彫金職人が目視と誤差の分配でなんとか均してきた。統一規格には程遠い」
もう三分の一ほどは目を打ち終えただろうか。アーチ窓の外に不意に飛び込んできた、けたたましい冬鳥の声を聞き流しながら、オットフリートは手にしたチョークの上下を持ち替える。ノールックで、手品のような軽やかな手つきだ。
「外周の長さを紐で測り、360等分して目を打っていくという方法は、既存の星見盤の製造でも行われている。ただ、紐は環境によって伸び縮みが激しい。その上1°の基準となる標石をひとつだけ用意し、ひとマス分ずつずらしながら印をつけているから、結局誤差が大きいのだ。お前が考えた〝統一規格の標石を360個作って、剛性のある正円の中に並べる〟という発想は、その課題を一挙に解決するものだ」
カッ。
カツッ。
¹∕₃インチという小さな錘ひとつにつき、ひとつの目を打っていくために──少しずつチョークを回しながら、尖った縁で器用に細い線を引いていく老人の手を、しゃがみ込んだ子供はじっと見ていた。
ほんのいっとき騒がしかった窓の外の鳥は、高い塔の上から流れ込む遠くの雑踏の中にすっかり溶け消えている。ここにきた時はまだ少し横殴りだった白い陽の光が、いつの間にかずいぶん頭上高く、三方に開けた丸窓から差し込んでくる。
すぐ足元に立つ繊維ホールから、慌ただしく出入りする人々の足音や声高な工場ごとが、石造りの壁を伝って、意味のない振動となりここまで這い上がってくるようだ。
「……む。こんなものか」
360°、全ての分銅に目を打ち終えたオットフリートは、肩膝をついた姿勢のまま上体を起こし、両手についた粉を軽く払った。パチン、と小気味良い音を立てて老人が指を鳴らすと、複製された359個の錘がフッとかき消すように見えなくなった。
ひとつ残った本物の分銅と駒を、そっと摘んで秤の傍に戻す。
「見ろ。これがお前のやろうとしていた、全円に1°ずつの等間隔な目が打たれた完全な度数円だ」




