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Pure World




 ──いや、おれが乗るの?


 いつの間にか──。

 即席で作った担架車に載せられながら、コーネリアスは狐に摘まれたような顔で膝を抱えていた。

 荷車は滑らかに進む。

 修道院の倉庫群を出て、名も知れぬ小さな石橋を渡ってたどり着いたのは、この街のギルドが所有する赤煉瓦の倉庫群だった。

 魔道具の製造で有名な、隣国の鉱山都市から戦災で焼け出されてきた職人が、倉庫の一室で簡易的な店を構えているらしい。突貫でできあがった担架車の仕上がりについて、「エルゼ」に聞いてみるのがいい、と子供たちが強く主張するので、言われるままについてきた結果、なぜか急患の代わりに担がれている。

 どうしてこうなった。


「行け行けー!」


 子供たちの歓声が、赤煉瓦の倉庫群に響き渡る。顔見知りらしい大人たちの、「急患かい?」という冷やかしの声。


「いえ、実験です」


 子供たちに混じって冬の石畳を駆ける、明るい銅の髪をした小柄な少女が、生真面目な顔でそんな返事をした。道具屋の常連か何かなのか、午前中から酔っ払っているような赤ら顔の職人は、おかしそうに声をあげて笑う。

 実験。実験か。

 確かに有意義な実験ではある。挨拶もそこそこに担架車(仮称)を見せた時、エルゼ──エルズベートという異国情緒あふれる名前がある──と名乗った少女は、黙っていれば儚い印象のある小作りな顔で、面白いくらいにぽかんと口を開けた。

 たっぷり10秒くらいして、ようやく我に返った彼女は、言葉を尽くしてコーネリアスの仕事を褒めてくれてから──。


 ──できあがったなら、使ってみましょう。


 と、やはり真顔で言い放った。

 そして今に至る。


「どうですか、乗り心地は」


 きらきらと川面を反射する、明るいオレンジブラウンの三つ編みを揺らしながら、横を走るエルゼが問う。興味津々といった顔で、今にもメモでもとり始めそうな調子だ。

 担ぎ棒に通したキャンバス織りをつかみ直しながら、コーネリアスもいたって真面目に答える。


「乗り心地、っていう視点で話していいのか分からないけど。思ったより全然揺れないですね」

「ここの領地の子供たちの浮力制御はすごいですよね。私も橋に乗せてもらって、対岸と接続してもらったことがあるけど。乗り物に乗ってるみたいだった」


 何それ興味ある。

 大きな声で号令をかけながら、テンポをとる子供たち。凍りついた川面から冷気が立ちのぼり、吐く息が白く舞う。

 石畳の両脇に建ち並ぶ倉庫の軒先には、薄絹のような雪が少し残り、どこからともなく犬の吠え声がする。

 荷車の車輪が少しだけ跳ねた。吊るしただけの担架が、さすがにぐらりと揺れる。

 目の前には来た道と同じ小さな橋。石造りの欄干の上に霜が根を張り、横たわる運河は薄氷をまとって、黒々とした水面を覗かせていた。


 ゴォ──ン──……

 ……オォォォォォ……


 いきなり、足元を掬うような重い鐘の音が響いた。

 天韻導塔の鐘だ。大聖堂の向こうから、すぐそこにあるような粒度で、冬の朝の空気の中を立ち上がってくる。

 重たい打刻に、子供たちも咄嗟に足を止めたようだった。少しの空気抵抗を残して、橋の中ほどで停車する。

 幕を引くように鐘の音が捌けたあと、その場を満たしていた笛や打楽器の音にようやく気づいた。ずっと聞こえていたはずなのに、確かに今初めて耳に届いたのだ。

 聖歌の和声が、ぴんと張った冬の空気を震わす。

 大修道院から伸びる、祝福の聖列だ。


「聖女さまですね」


 星の美しさでも語るような、現実離れしたもののことを指す声で、エルゼがぽつりと呟く。さして熱のない、さりとて悪意も何もない、皆既日食でも見送るような他人事の声。

 ほんのふたつほど季節を遡れば、コーネリアスも似たようなものだったから──気持ちはよくわかる。

 ひらひらと、白い花びらのように雪が舞った。

 黒山の人だかりの向こう、鮮やかな瑠璃と白の装束を纏った楽士を先頭に、灰鉄色の鎧や緑青の旗、深緑の領主夫妻のマント。冬の針葉樹の森のような清冽な色彩。

 その中央──ひときわ高い位置に見えるのが、白馬に腰を下ろした聖女の姿だ。

 薄墨を流した冬の空のような、薄い布が川風を孕んで後方にたなびいている。ちりちりと、新雪のようなきめ細かな光が、布の動きに合わせて周囲を跳ねる。

 薄絹の下に透ける豊かなストロベリーブロンド。大粒の翠砂がそこにあるように見えたのは、さすがに見間違いだったろうか。

 背筋をすっと伸ばし、姿よく座した聖女は、まっすぐに前を見据えていた。よく笑いよく泣く16歳の少女ではなく、聖ルスナラの愛し子の顔をしている。

 傍に控えた近侍が、風にわだかまる薄布を丁寧な所作で捧げ持つ。馬上の人と揃いのように、白を基調とした祭服に、緑青の差し色を入れている。

 ひどく美しい仕草だった。手にしたヴェールそっくりの、冬の空色の髪。じっと見るまでもなく、アンドリースだとわかる。

 本当に──絵画のような主従だと思う。隙あらば天使像に準えられたというのも無理はない。


「ねえ」


 不意に低い位置から声がした。見ればつまらなそうに口を尖らせたフェンナが、大きな目を眇めてこちらを見上げている。


「お嬢さまの友だちなんでしょー? だったら別に珍しくないじゃん」


 見過ぎ──と、まさかの6歳児に釘を刺されてしまった。吹き出しそうになって、かろうじて堪える。ここで笑うのはきっと、よけい怒られるやつだ。


「わかった。お嬢さまのこと好きなんだ」


 相変わらず、どこかの誰かの口ぶりを引き写したような調子のティースが、こまっしゃくれた揶揄を投げて寄越した。おまえは賢いなあと、鳥の巣のように跳ねた髪を撫でてやりながら──コーネリアスは今度こそ、堪えきれなくなって笑った。


「うん、たぶん」







「──お嬢様」


 抑えた声で呼びかけられて、ふと我に返った。風に広がったヴェールを巻き取ってくれながら、アンドリースが目顔で行先を示す。見れば正面の沿道、立派な橋の欄干のあたりに、近在の領主や高位聖職者が数人、にこやかにこちらを見ている。

 失態だ。細やかな近侍のフォローに感謝しながら、何事もなかったようににこりと微笑んだ。

 行列は進む。

 ごう、と、横殴りの風が吹いた。

 吹きっ晒しの小さな石橋の上で、桟橋係の子供たちに引っ張られて走っていく墨色のローブ。あれは確かにコーネリアスだったと思う。

 見憶えのない──南国の貴腐ワインみたいな美しい髪の娘を、子供たちと一緒に笑い合いながら、引いていた荷車の上に引っ張り上げていた。

 一枚の絵のような光景だった。ひとかたまりの人の群れが、当たり前の顔で当たり前に街角を歩いていく。過不足のない──何ひとつ違和感がない、市井の人々の姿。


 ゴォ──ン──……

 ……オォォォォォ……


 二つ目の鐘が鳴った。

 ハリエットは──。

 一度だけ長く目を閉じ、そして開けると、正面に聳え立つ導塔を見上げた。







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