ミュミング遊行4 ─ 夢みたいな話
コンコン、と、ノックの音で気がついた。
いつの間にか陽がとっぷり暮れている。
「コーディー?」
聞くからに面倒くさそうな声とともに、倉庫の扉が軋みながら開かれた。赤い髪の魔法使いに白い目で見下ろされる。
「お前はァー、バカなのかな?」
「…….あー、はい、バカです。ごめん……」
「俺に謝んなくていいんだけど。あいつら寝ちゃったぞ」
「えっもうそんな時間!?」
冬の日暮れは早い。何かに没頭していると、簡単に時間の感覚を見失う自信のあったコーネリアスは、転がしてあった肩掛け鞄から慌てて懐中時計を取り出した。魔法使いにとって、日の長短に左右されない定時法の時間は重要だ。師のもとを離れたら、「塔」の大時計を基準とした携帯式の時計を持つようになるのが一般的である。形式は様々ながら、概ね砂時計に似た機構をしている。填め込まれた時結晶が数字を示すだけのシンプルな魔道具だ。
時刻はⅥを指していた。夜半とかじゃなくてよかった。
「……なんだ」
「なんだじゃねーよ。お前ね銀線はそりゃいくらあっても助かるけども。いや大したもんだなこの量本当にバカか。倉庫空けといてよかったわ」
しょうもない理由から──領邸に戻るたび大小様々な身の危険に襲われ、それを回避するためという本当にしょうもない理由から、彫金魔法などという埃をかぶっていた固有魔法を修得した、とは聞いていたものの。マテウスの概念では、彫金というのはあくまで装飾を施す技術のことだ。屑銀の塊から大量の銀線を削り出すような代物ではない。足の踏み場もないとはこのことである。
昔から、異常に集中力のある子供だった。
マテウスのような、魔力にも才能にも環境にも恵まれたエリートからすれば、コーネリアスという少年はただそれだけの生き物だった。馬鹿みたいに熱中する能力があって、それ一本で生きていた。
詠唱中に漏出する魔力が勿体ないという理由で、いきなり無詠唱を選択するようないかれたガキだ。魔法に重要なのはイメージで、言語による詠唱はそれを定着させるための一番安定したプロセスなのにだ。よほど鮮明にイメージできなければ無理だし、仮にそれができたとして、一瞬で陣や式を解像するのに必要な精神力は並大抵のものではない。
あれが欲しい、これを寄越せと与太を飛ばすと、本当に作ってくるのが愉快だった。最初はそれが面白くて、構っていただけだ。
ひと目見ただけでは分からないような、複雑な道具だったことはたぶん一度もない。ひと目見ただけで大方の構造が分かるのに、誰も作ってこなかったものをポンポン作り出すことの異常さが、分かった時には国境の小領主に攫われてしまっていた。
「ミネは納得したの?」
「あいつ、あれで結構ビビりだからな。自分は魔法使いだと思うから名乗ります、それだけ! って言われて、理解できなぁーい! って叫んでたよ。まあ理解できないことが分かったならいいんじゃないか」
「マットは納得してるのか」
「俺には分かる、あの聖女様はそんな感じだろ。大舞台に引っ張り出されることが多いからハッタリは上手そうだけど、腹芸とかできるような子じゃない。神職じゃなかったら前衛やってるタイプだ」
「神職が前衛やってもいいと思うけどね。先制攻撃できるんだし」
銀線の末端を始末しながら、コーネリアスはどうでも良さそうに言った。相変わらず覇気のない男だ。
山と積まれた投げっぱなしのコイルはまだ大量にある。この分だと、さっと母屋に引き上げるというわけにもいかなそうだ。燭台に火を入れながら、マテウスは昼すぎの会話を思い返した。
「それにしても、時間の権威を教会に取り戻すとはなあ。恐ろしいこと考えるなあの子」
「頭がいいんだよ、ハリエットは」
ジリッ……と微かな音がして、床に置いた時計がゆっくりとⅦを示す。
昔──この世界の時の概念は神が握っていた。人々は日の出と日の入りのゆるやかな支配下にあり、時刻ごとに祈祷、学問、労働などの戒律が厳格に定められた宗教者の暮らしだけが、時の進む速さを担っていた。時間に関する魔法の多くが、聖魔法に分類されていたのもこの頃の話だ。
やがて機械式の塔時計が農村にも広まり、人々が公共の時間という概念を手にするようになっても──この大陸の中だけに閉じている間は、それだけでいられた。
決定的な変化は、海洋交易の始まりである。
海を渡り、違う時刻を生きる土地の存在が流れ込んでくる。交渉、通信、輸送、製造……あらゆる行程に時刻がついて回る。魔法使いが、大都市ほど平民の暮らしに素早く浸透していったのも、風読みや占星の技術が商工業と強く結びついていたからだ。
魔法の多くが禁忌とされていた頃、人々は魔力を秘匿することが多かった。迫害を避けるためだ。
しかし、商人や職人の間に時刻を基軸とした生活が広まり、時を売って暮らすなど神への冒涜だ──という教会の教えも響かなくなってくると、公然と魔力で生計を立てる者も現れる。
船乗りなどは最たるものだ。星針盤も船燈石もなく広大な海に出るくらいなら、悪魔の力でもなんでも使って生き延びてやる、というのが、彼らの主張だった。もっともな話ではある。海洋技術の開発は、今に至るまで魔法使いの代表的な産業だ。
都市部において、教会はかつての圧倒的な権威を失いつつある。聖魔法を囲い、医療と農業を抑えている分凋落するようなことはないだろうが、内部に葛藤はあるはずだ。いや、間違いなくあるのだろう。その点を突けば多少どころでない無理も通ると、教会領の聖女が思うほど。
「暦ね。ないと不便だもんな」
「あっても機能しない方がよっぽど不便だけどな。混乱の元だ。航海が絡めば人命に関わる」
「そうしてると次期ギルドマスターって感じだな」
妙なものでも見るような顔で──こいつは時々心底失礼だ──コーネリアスはしみじみそんなことを言うと、憮然とした顔のマテウスを見上げた。
いつの間にか、あれほどあった銀線がきれいに片付いている。
「よし、場所が空いたな。じゃあお兄さんに見せてみなさい」
「別に場所食うようなもんでもないけど──」
転がしてあった杖を床に立てる。防腐処理で黒ずんだ栗の木。節のないまっすぐな形状。先端に真鍮のキャップ。何から何まで平凡な、見ないで生きてくることの方が難しいくらい何の変哲もない杖だ。杖使うの久しぶりだな。ひとり言ちて、グリップに両手を乗せる。
一拍おいて、空間に淡い光が灯った。術者の周りを円筒状に囲むシールドに、びっしりと数字が書き込まれている。
古代数字だ。
「すっげーな! まるで読めん!」
「上級魔法使いはちょっとくらい読めろよ。司祭クラスなら読めるぞ」
耐えきれなかったらしく、術の途中なのに突っ込まれた。無詠唱だからできることだ。器用なんだか非力なんだかよく分からない。
円筒型のシールドがタペストリーのように広がり、人の背後でぴたりと止まった。雪月から厳冬月まで──おそらく12ヶ月、365日分の古代数字が整然と矩形に並ぶ。
いくつかの文字に赤い色がついた。
「今の暦は、名前こそ建国の時に変わったけど、1000年以上前に導入された聖ウリジス暦を踏襲しているものだ。二十四節気はいま、8日もずれてる。一番古い記録だと200年前、だいたい6日ぐらいのずれが観測されている、らしい」
「それ全部計算し直すって死ねるな」
「死ねるからズルズルここまで来ちゃったんだろ。学者は指摘してると思うけど」
「まあ学者連中にとっちゃ計算魔法なんかオカルトだもんな」
「魔法使いにとってもオカルトじゃない?」
珍しく、覇気のない男が冗談を言っている。「塔」のてっぺんの、そのまた最奥の書庫で埃をかぶっている、固有の動作にしか使えない古の固有魔法。
「公開の記録は200年しか追えないけど、教会は記録を持ってるはずなんだ。400年前が6日。800年前は2日。この計算が合ってれば、保守派はともかく改革派は信じるはず」
美しい、まるで幻術のような光景だ。年数の遷移に伴い、赤い数字がポウ、ポウ、と動いていく。
少し眩しさを覚えて、赤い髪の魔法使いは目を擦った。
昔──人々は今と違う概念で数字を捉えていた。巨大神殿の細部まで緻密な意匠を施せるほど進んだその文明は、神の怒りに触れて散逸し、今ではほとんど意味を為さない記号の群れと化している。
建国より前、聖セースラ暦以前の固有魔法は魔力が多すぎると作動しない。詠唱を介すと構成できない。負け惜しみのように記されていた、100年前の研究者の手記など誰が信じるだろう。この──どうかしている幼なじみがこんな魔法に手を出したのも、まさか発動するとは思わなかったからだそうだ。
「あとは、緘布か何かで魔力を抑えて、無詠唱ができる上級魔法使いを連れてくればいい。いくらでも計算できる」
コン、と、軽い音がして、杖の先が床を叩くと同時に数字は消えた。
昔から──異常に集中力のある子供だった。マテウスからすれば、コーネリアスという少年はただそれだけの生き物だった。
馬鹿みたいに熱中する能力があって、それ一本で生きていた。
そんな夢みたいな話があるかよ。
そう思った。
ふう、と大きく息をついて、座り込んだ少年は疲れた──と腑抜けた声をこぼした。
「あとは任せた。マットはもうできるだろ」
「コラァ──!」
言うと思った。間髪入れず叱りつける。本当に心からびっくりした、と言いたげな顔を、片手でむにゅっと掴む。
「あのなァ、俺がお前の道具とか魔法を代わりに発表してたのは、俺が言い出したやつだから! もしくは俺が成人でお前が成人前だったからだ! お前ももう16なんだから、自・分・で・や・れ! 表に立つことを憶えろ!」
「ええ……マットがやってくれると思ったから見せたのに……」
16歳はもう成人だ。そうは問屋が卸さない。ひとしきり揺さぶってから手を離すと、ものすごく嫌そうな顔で、コーネリアスははばったりと床に倒れた。いやだ……と仰向けになって呻いている。力尽きたらしい。
「諦めろ。俺は出ないからな今か……んん?」
ビリッと、静電気のような刺激が背後を襲った。首筋に手をやる。
このギルドの事務所は、兄妹が張った中程度の防御結界に覆われている。攻撃とは違う変な接触を感じて、マテウスはその異物を捉え引き寄せた。明らかにこの倉庫でなく、妹たちのいる母屋に向かっていた。次期であるマテウスに宛てたものではあり得ない。
薄い──何か紙のような、奇妙な。
「……手紙?」
「みたいだな。普通の速達じゃない。配達人はこんな術で運ばねーし」
見たところ何の変哲もない封書だが、何の変哲もない封書が空を飛んできてたまるか。怪しすぎる。貴族のご令嬢をお預かりしている母屋に、こんな正体不明の通信を素通りさせるわけにはいかない。
当主代理として検閲一択である。躊躇いなく封を切ると、震える紙がいきなり、耳元で囁く。
──こんなところにいたんだね。ハリエット。
「気持ち悪っ!」
声が揃った。