美しい家
目が覚めると、窓の外が白かった。
──雪だ。
目をこすりながら、コーネリアスは身を起こした。細かな水泡の浮かぶ厚い窓ガラスに、少し滲んだ外の景色が透けている。回廊の屋根も、木立も、敷き詰められた石畳も真っ白だった。今はまだ何の足跡もない。
雪明かり──というのだったか。太陽は、分厚い雲の向こうに隠れているのに、やけに明るい世界が広がっている。
少しの間、それをただ見ていた。北に来たのだ、と、もう一度思う。師匠の島に放り込まれた時ほど雪深くはないけれど。
朝の光の下で見る羊毛のマットには、よく見ると同色の糸で細かな紋様が縫い込まれていた。はっきり憶えているわけではないが、回復の魔道具に施されていた刺繍と同じものだと気づいて感動してしまった。芸が細かい。
思い切って寝台を降りると、燠火の残る暖炉の傍で手早く身支度を整えた。もたもたしていると余計に寒い。
鞄の底で、荷物の重みにすっかり糊付けされたダブレットを引っ張り出す。暗いグレーの、膝上くらいのしっかりしたウールの上衣だ。学院に入る前から着ている吊るし売りの外出着だけれど、糸が良いぶん比較的上等に見える。襟高の首まできっちり留めたところで、軽いノックの音がした。
「おはよう!」
「お嬢様! 開けるのが早すぎます」
朝からにぎやかな侍従長とお嬢様が顔を覗かせた。袖口を直しながら、「おはよう」と答える。
ヒュッと息を呑んだハリエットは、何を思ったか勢いよく天を仰いだ。両手で顔を覆って「やだ、かっこいい……」と呻いている。
完全にテンションがおかしくなっていると思う。正直なところ、持ち歩きに耐え得る冬服をこのふた揃えしか持っていないだけなのだけれど。
挙動不審な主人の傍で、申し訳なさそうに会釈したマグダレーナは、そつなく扉を閉めてくれながら「おはようございます」と端正な挨拶をくれた。
「お支度いただき恐縮です。領主邸の食堂は小食堂にあたりますので、当主も略式でお迎えいたします。お寛ぎくださいませ」
「こんなこと言うのも本当にアレなんですけど、コレぐらいしか、外に着て行ける服を持ってないので……」
「まあ」
ふっと小さく息をついて、マグダレーナは強い目元を少し緩めた。
「大事に着ていらっしゃいますのね。裾も袖もきちんと始末されて」
「縫製の魔法があるんです。家族の手伝いをしたくて、憶えました」
「いつの間に仲良くなったの……」
ただでさえ大きな目をこぼれ落ちそうに見開いて、ハリエットがまじまじとこちらを凝視していた。なんだろう、ホームに帰ってきたからか、全体的に無防備に見える。子供みたいにくるくる変わる表情を眺めていると、つられて愉快な気持ちになった。
「愚息の仕事にご助力いただいたのです。本当に感謝の言葉もございません」
「えっ、リースに会ったの?」
「うん。こてんぱんに怒られた」
「なんで!?」
話しながら食堂の入り口をくぐった。修道院らしい長机に、二方向の開口から採られた陽がしらじらと差している。燭台と暖炉が暖める空気は、微かに蜜蝋の甘い匂いを纏っていた。手吹きのガラス越し、乱反射した光が部屋全体を淡く浮かび上がらせる。
上座の側に固まって、領主一家が座していた。末席の少年が、弟のフローリスだとひと目で分かる。髪の色も瞳も、びっしりと細かい睫毛まで、絵に描いたように姉に生き写しだったからだ。今より少し幼い頃のハリエットは、きっとこんな顔をしていたんだろうなと思う。
上席には、見覚えのあるひと組の男女が微笑みながら腰かけていた。緑がかったアッシュブロンドを後ろに撫でつけた、穏和な瓜実顔の紳士がグステン夫君だろう。一度だけ見た公式の場で着けていた眼鏡は今は外されていて、美しいシトリンの虹彩が覗いている。
その隣で、薄く湯気のたちのぼる厚手のカップに手を添えた──かの高名なブリュンヒルデ大修道院長閣下は、記憶にあるものよりずっと小柄な女性だった。覇気が彼女を実物以上に大きく見せていたのだろう。
護符に欠かせない太陽の花、マリーゴールドそのものの目の醒めるようなオレンジの髪を、生成りの頭巾で簡単にまとめている。子供たちによく似た、下を向いたら落っこちそうな大きな瞳は、酸化銅よりも澄んだ青だ。
「どうぞ、座って」
ハリエットとフローリスの間、ぽつんと空いた椅子を勧められた。身分的には自分の方が下になるはずなのだけれど、弟君より上に座っていいのだろうかとまごつきながら背もたれを引く。ハリエットも同じようにしていたので、確かに略式──貴族の食卓というほど肩肘張ったものではなさそうだ。
「初めまして。ブリュンヒルデ・ファン・ヘーゼよ。あなたが、〝戦わない魔法使いのコーネリアス〟?」
ざっくばらんな空気に完全に油断していたのだろう。興味津々といった顔で覗き込まれて、子爵閣下の前だというのに吹き出しまった。間違ってない。何ひとつ間違ってないのだけれど、この家族の中で、自分はそんな認識になっているのか。
「あー、はい、たぶんそうです」
「ちょっと、お母様!」
「諦めなよ姉様。迂闊なこと言われたくなかったら、母様宛ての手紙に書いちゃダメだって」
「そうなのよ。私ったら、何でもすぐ思ったこと言っちゃうのよねえ。魂がずっと女子高生だから」
聞いたことのない単語がいきなり降ってきた。今ひとつ聴き取れなかったものの、地方固有の表現かもしれないと思い直して続きを聞く。わざとらしく片手を頬に当てて憂い顔を作っていた院長閣下は、青い青い大きな目で、じっとコーネリアスを見つめて──。
「ねえ、リセマラって知ってる?」
と、言った。
──なんて?
子爵閣下以外の3人が──いや、壁際に立っている給仕係や、ワゴンを押してきた料理人見習いの少女さえも、「なんて?」という顔でぽかんとしている。
扉の傍に控えていた侍従長が、頭の痛そうな表情で眉間を揉みほぐした。
いや、この空気、どうにかしないと。
「リセ……、すみません、なんとおっしゃいましたか? 聴き取れなくて」
古代語かな? と思いながら、少年がおそるおそる尋き返すと──ガタン! と唐突に音を立てて席を立ったブリュンヒルデは、娘の両手をはっしと握りしめ、歓喜の雄叫びを上げた。
「なるほどね──ハリエット、よくやったわ! さすが我が娘! この子は野生の天才よ。最高の婿を捕まえたわね!」
ヒャッホー、と、聞いたことのない歓声をあげ、くるっと軽やかにターンを決める子爵閣下。満面の笑みで娘の手をそっと離すと、何事もなかったようにもと通り席に着く。
ちょっと待ってほしい。何が何だか本格的に分からない。
「野生の──え?」
とりあえず復唱しようとして機能停止してしまったコーネリアスを見て、ブリュンヒルデはケラケラと笑った。市井の、どこにでもいる女の子みたいに屈託なく。
「そう。私はタネも仕掛けもある、養殖の天才。あなたみたいな、その辺に勝手に生えてきた天才とは違うの」
雑草みたいだけど、褒め言葉と思って大丈夫だろうか……?
やっと出せたヒルデママ。境遇は想像にお任せします!




