ルデリック先生とクラウスの兄妹
「昔、司祭様にお会いしたことがあります」
憶えていらっしゃらないでしょうね、と、聖なる乙女は夢のように淡く微笑んだ。枯葉色のフード付きのマントから、薄暮の雲のようなストロベリーブロンドが覗いている。町娘のような草色の長いスカートに、シンプルな革靴を履いているが、立ち居ふるまいは明らかに貴族のそれだった。
「ええ──失礼ながら」
ルデリックは、躊躇いがちに頷く。小領主の二子で、食いっぱぐれないために入れられた神学校を辛くも卒業してからずっと、異端の神学者として生きてきた。如才ない立ち回りというやつがどうも苦手で、割りを食ったことも多くある。教会の権威の枢軸に名を連ねる、エルトゥヒトの聖女と面識を得る機会などなかったはずだ。
一度だけ、あの堅牢な砦のような双塔の大修道院に、足を向けたことはあったけれど──。
「オマール正暦524年、浄化月の終わり。司祭様は我が領にお越しになりました。神学討論会に割って入った、お行儀の悪い子どもにお心当たりはありませんか?」
──神さまのめぐみなら。
──なぜみんなにないのですか?
舌足らずの、いかにも不満げな表情の娘が不意に記憶の窓を叩いた。
弾かれたように顔を上げる。
聖血礼拝堂の華やかな祭壇を背に、こつ、こつ、と、質素な革靴が歩を進める音がする。
「君は──」
神学討論会。年に一度、年若い司祭や修道者、見習いが集まり、高位聖職者や大司教の前で教会の方針や学説について整理する場を与えられるものだ。上席者は若者たちの議論を見ているのみで、よほどのことがなければ発言することはない。
その──よほどのことを起こした、ほんの5、6歳のように見える貴族席のご令嬢がいた。
神の恵みならば、皆に等しく与えられるべきではないか。聖女の選定とは何か。素朴な問いかけではあった。大司教は沈黙を貫き、保守派の老人たちが苦虫を噛み潰した顔で、神の御心を探るような真似をすべきではない──といったような、まるで経文じみた答を繰り返した。
あの時自分は──何と答えたのだったか。
「我々は問うべきです、と、お答えくださったのは司祭様だけでした。ルデリック先生、とお呼びした方がいいかしら」
胸の内を読んだかのように、聖女は嬉しそうに言った。完全に記憶が蘇る。議長席を立ち、ご令嬢の眼前まで歩を進めて、首を垂れたことまで思い出してしまった。不勉強を詫びただけではあるものの、我ながら気障なことをしたものだと面映い気持ちになる。
含羞むように口許を覆った若い司祭を見て、令嬢も気恥ずかしそうに笑った。
「子どもの浅知恵です。当主教育を受けましたから、今なら皆さまのおっしゃりようも分かりますわ。でも、あの時は嬉しかったのです」
「お恥ずかしい話です。そうですか、ブリュンヒルデ閣下の……」
「ええ。ブリュンヒルデ・ファン・ヘーゼが一女、ハリエットと申します。ヴァンダレイン教区の改革派である先生に、お話があって参りました」
完璧な淑女の礼とともに、きな臭い言い回しで切り出され、何を聞かされるのかと思ったら──。
魔法使いギルドをオーメンジュで優勝させたい。そのためにフルパワーの魔法で支援をしたい。つきましては、魔法使いギルドに登録します! ──などという、高熱を出した時に見る夢みたいな、極大の無茶振りが降ってくるとは。……
「へー、ハリエット・ファン・ヘーゼ子爵令嬢ね……出身はエルトゥヒト……ってあんた! 特待生の聖女じゃん! 魔法使い登録? 何考えてんの!? 無理無理絶対無理!」
「そこをなんとか」
「無理だって! ウチを僧兵団に襲わせる気!?」
「落ち着けって、ミネ。一応ノープランできたわけじゃないから……」
疲れる──と事前にぼやいていた通り、すでに頭の痛そうな顔で口を挟むコーネリアスに、プードルみたいなふわふわのツインテールを掻きむしって喚いていた少女はぴたりと動きを止めた。半月型の三白眼を、今にも溢れそうなほど見開いて静かにキレる。
「当たり前だろ。こんなヤバい話、なんも考えずに持ってきたら簀巻きにしてそこの運河に沈めてるわ」
──物騒。
脳筋に言われたくないだろうが、素直にそう思う。それにしてもミネって。家族に準ずる愛称というやつだ。よそ行きの澄ました顔の下でハリエットはひとり悶えた。ウィレミナさん、うらやまけしからん!
「コーディ」
幼なじみをじとりと睥睨して、ウィレミナは幼子に向けるような愛称を口にした。何それ可愛い。ますますうらやましい!
「教会とのあれこれはあとで大人と聞く。私だけじゃどうせわかんないし。それより、この聖女様使えるんでしょうね?」
「ハリエットは多分、おれよりずっと戦力になる。トレンレーツの舞台で裏方やってんだぞ」
「それを早く言えよ! ご協力ありがとうございます! ねえ照明いける!? 花とか飛ばせる!?」
ガシッと両手を掴んで満面の笑みを浮かべる、小動物のような──と思ったけど、この三白眼は小爬虫類かもしれない──顔に毒気を抜かれてしまった。花も照明も、何なら煙幕だって虹だってお手のものだけれど、今は聞いたこともないぞんざいな喋り方のコーネリアスが気になって集中できない。
これはそう、オフショット。破壊力が凄い。何これなんのサービス回?
「ええと、花も光魔法も得意です。登録してくださる?」
「何!? 僧兵が攻めて来るって!?」
カウンター越しに手を握られながらなんとか答えた瞬間、物凄い音がしてバックヤードの扉が開いた。何かを中途半端に聞きかじったらしい、騒々しい青年が息せき切って駆け込んでくる。一見乗馬服のような軽装だが、要所要所に防御回路を縫い込んだ刺繍が施された後衛装備で身を固めていた。燃えるような赤い髪が、隣国の王女殿下を思い出させる。お元気かしら。
「あーもーウルサイのが来ちゃったよー」
「冷たいな妹よ! 兄ちゃんは悲しいぞ……ってうわあッ!? 聖女様!? マジか!? 絵姿そのまんま! うちのギルドになんのご用で!?」
いったん流してから食いついてくる反応が妹そっくりである。顔はあんまり似てないのに……と、変なところで血縁を感じてしまった。それにしても何もかも勢いが凄い。たしかに妹より数倍パワーアップしている。
「駄目だこれ、収拾つかねえ……」
そのあたりで限界を迎えたらしいコーネリアスが、とうとうしゃがみ込んでしまっだ。蝸牛みたいに丸まって呻いている。何食わぬ顔でやり過ごしたものの、供給過多で死にそうになった。あまりにもかわいそうかわいい。
「──で、コーディ。どういうことなのかシンプルに説明しろ」
「急に我に返るなよ……」
はあああ──と、腹の底からため息を吐いて、少し復活したらしい少年は、勧められた椅子の背もたれを前にして座った。全体的にいつもより少し行儀が悪い。眼福。あらゆる計画がポシャっても、これだけで来た甲斐がある。いや、すでに教会を巻き込みまくっているので、ここで頓挫したら困るのだけど!
「いろいろあるんだけど、ハリエットはおれと一緒にギルドの仮装を手伝いにきてくれた。ギルド登録を条件に関所を抜けてきたから、ここで魔法使いとして登録したい。結論から言うとそれだけ」
「すでにキャパ超えてんだけどわかった、いろいろだな。あとで解決するんだな。信じるぞ。──そのいろいろは置いといて、教会が許さんだろそんなん。そりゃうちの教区はギルドと教会の関係が太いけどさ。先に話通してきたのか?」
「そこは私からご説明します。マテウス様」
「はいっ?」
ハリエットが小さく挙手しながら口を挟むと、赤髪の魔法使いは面白いほどピッと背筋を伸ばした。天衣無縫みたいな顔をして、意外と繊細なのかもしれない。可哀想なくらい緊張している。
どう落ち着かせようか考えあぐねていると、つい、と袖を引かれた。まだ少し疲れた顔が、それでもだいぶ復活したらしく、いつも通り掴みどころのない調子で言った。
「令嬢モードはこいつら緊張しちゃうからさ。学院で話してる時みたいな感じがいいよ」
「そう?」
「ちなみにおれも緊張する」
「ふふっ」
絶対に嘘だ。笑ってしまった。この人はそういう人だ。その場を丸く収めるために、張らなくていい見栄は張らない。
お陰で無駄な力が抜けた、と、思う。自分で思うより、ハリエットも気を張っていたらしい。改めて姿勢を正すと、カウンターの奥に腰かけた兄妹の顔を真っ直ぐに見つめた。
「ごめんなさい。……教会に根回しはしてきました。二人とも、ルデリック司祭と親しいのよね?」
「あのクソ堅物がどうかしました?」
「ええ。知っていると思うけど、教会も一枚岩ではないの。改革派を引き込もうと思って」
「ねえ」
間髪入れず、焦れたように妹が声を上げた。高く結い上げた髪が、ぴりぴりと雷気を孕んで揺れている。ゆったりとしたドルマンスリーブのチュニックに、複雑な魔法紋が縫われた細帯で腰を留めた、ともすれば古風な農村の娘のようないでたちだけれど、この人も上級魔法使いなのだ。
「何かしら、ウィレミナさん」
「そういうのやめてよ。私そういう根回し? みたいなのよく分かんないからさ。ストレートに言いなよ。ヘーゼさんさあ、何がしたいの?」
「おいどうした急に」
「マチェ兄は黙っててよ。だって意味分かんないじゃん。こんなの、あんまりギルドに都合が良すぎる。ヘーゼさんに何の得があんの? 目的が分かんないと、こんなデカい話乗っかれない」
「俺は乗っかってもいいけど?」
「マット」
椅子の上に組んだ腕へ顎を載せて、黙って成り行きを見守っていたコーネリアスが静かに兄を制した。
かたん、と、椅子の背を掴んで立ち上がる。
「これ、おれがいないほうがいいな」
「なんで!?」
「むしろあんたが説明しなさいよ!」
まったく同じリアクションで、カウンターを叩いて立ち上がる兄妹を、珍しく胡乱げに少年は睨め上げる。
「しないよ。あのさあこれ、別におれが考えた話じゃないから」
そうだろ、と、姿勢よく座したままのハリエットを赤と榛の目が促した。できるだけ落ち着いた様子で、目を合わせたまましっかりと頷く。
「ええ、たくさん助言はもらったけれど。これは私が言い出したことです。私が主体となって進めるわ。でも、できるだけ助けてね」
「それはもちろん」
頷き返すと、そっくりな表情でポカンとしている幼なじみ達を一瞥して、何だかバツが悪そうに、コーネリアスは言った。
「この二人とは、そのー……さんざん悪戯っていうか悪巧みっていうか、めちゃくちゃやってきたから。おれがいると、おれが計画したみたいになると思うんだよなあ。ハリエットが何を言っても」
「うん」
「それは駄目だ。ハリエットは、自分で話せるでしょ」
「それはもちろん!」
微塵も躊躇いなど見せたくなかった。満面の笑みで、力こぶを作って見せる。
自分の声がひどく弾んでいるのがわかる。信じて矢面に立たせてもらえるのは、何より誇らしいことだ。
何もしなくていい、自分の陰に隠れていればいいなんて——恩着せがましいあの変態みたいなことを、この人は言わない。
「拳で語んなくていいからね? ──ミネ、マット、おれ倉庫で銀線の準備してる。あとで」
一抹の不安を滲ませて──結構失礼だ──鰻の寝床のような細長いギルドの事務所を友人は出て行った。
すっかり毒気を抜かれた顔の兄妹と目が合う。
本当によく似た兄妹だと思う。ほんの少し話しただけでも、ハリエットはこの人たちが大好きになってしまった。
ぱん、と、音を立てて手を叩く。
「さあ、仕切り直しよ。二人とも、私の話を聞いてください!」
なかなかストーカーが出せない。次こそは…?