きれいだ
朝起きたら、枕元にプレゼントがあった。
「……!」
声にならない声をあげて、ハリエットは兆しはじめた朝陽にざらつく銀の櫛をかざした。興奮のあまり、持つ手が生まれたての仔鹿のようにぷるぷるする。
槌目の残る無骨な仕上げの飾り櫛は、葉脈の走る細葉のようにも、抜け落ちた鳥の羽根のようにも見える繊細な形をしている。天頂に張り出た蔦の先からは、翠砂晶を彫り出した大粒のドロップが垂れていた。魔力を通してみなくても、月長石に勝るとも劣らない動源たりえることが分かる、美しいガラス細工と銀の髪飾り。
決して他意はないけれど、彼がこんなそれらしいものを自分で選べるとは思わない──そんなところも好き! ──ので、誰か見立ててくれた人がいるのだろう。専門街の職人だろうか? 今日会いに行けるなら、ぜひともお礼を言いたい。
──きれい。
密度の高い、しっりしたガラスの雫を手のひらに置いて眺める。弱い光魔法を通すと、冬の星みたいに精確に、込めた分だけの力を使って光った。
舌を巻く魔力効率だ。漏出する魔力がほとんどない。弱い魔力であればあるほど、保持するのは難しくなる。純粋な無生物鉱石──たとえば宝石など──は、魔力の出し入れの際どうしても抵抗が生じるし、月長石のような鉱石の形で生きる魔石からは、生物ゆえに完全に空になるまで取り出すことはできない。
──なんだかんだ、月長石が一番ちょうどいいのよねぇ。
──あたしも、あれより人間と相性のいい魔石は知らないわ。
あの希少素材オタクの師匠さえ、外部動源について尋ねた時にそう言っていた。砂の魔法生物、いったいどうなっているのだろう。──知りたい!
マジックバッグの中を覗き込んで、仮装巡行以来の「魔法使いの正装」に袖を通した。冬の針葉樹のような深い緑のワンピースとローブ、マントは、リュベージュの古着市場でばらばらに売っていたのを執念で揃えたアンサンブルだ。よく見ると縫製やベロアの減りに違いはあるが、何も言わなければひと揃えの衣装にも見える。
少し考えて、降ろしていた髪をハーフアップにまとめ、後ろに櫛をさす。軽く浮性が付与されているのか、しっかり留まるのに、驚くほど軽い。
大きな鏡台の前でくるりと一周すると、垂らした髪と長衣の裾がふわりと舞った。
ちりり、と、ガラスの雫が微かに音を立てる。
「完璧だわ!」
誰にともなくこぼした呟きはそのまま鼻歌になった。櫛なんてアイテムこそ、市井の娘にとっては幾重にも意味を持つものだけれど、貴族の跡取り娘に何の含みもなく宝飾品型の魔道具を選ぶ人が、そんなことを意識しているとは思わない。
大きすぎる寝台にちょこんと沈んでいる繭の化石を手にとった。これだってそうだ。菩提樹の花蜜糖のような、少し物憂い寒色の黄色。自身にまるで興味のない少年が、自分の色を理解して誰かによこすわけがないのだ。
うまく誘導してくれた人がいるのだろう。信用している相手の助言なら、ちょっと心配になるくらい素直に取り入れるのは彼の美点でもあるけれど──。
「……誰にでも、こういうことするんだったら、止めないといけないわ」
真顔になってしまった。
ジジッ……
爆ぜるような音がして、時結晶が鮮やかな淡紫から海の青へ変わった。中央の数字がⅦを象る。
──7時か。
眠い目をこすりながら、コーネリアスはふかふかの椅子の上に身を起こす。相変わらず泥のように眠ったことは眠ったけれど、ここ最近の中では一番すっきり目覚めた方だった。遅ればせながら、回復が進んできているのかもしれない。
日の出頃の薄暗い窓。安物のランプに光を入れると、どこか冷たさの残る真珠色の光が、小箱のような部屋をふんわりと照らした。
小さな暖炉のそばに、水を張った鉢が吊られている。微かに残った熾火の熱を受けて、人肌より少し温い程度のぬるま湯になっていた。手巾を絞り、もそもそと顔を拭く。
この椅子は──本当に居心地がいい。なかなか降りる決心がつかない。
ココン。……
軽いノックの音がした。
「おはよう。開いてるよ」
「おはよう、コーネリアス! 入るわね!」
弾んだ声とともに、続きの間の扉が開いた。魔法使いの装束に身を包んだ少女が、嬉しそうに飛び込んでくる。
「ねえ、見て! 似合う?」
くるっとその場で一周して見せる所作も堂に入ったものだ。朝靄のようなストロベリーブロンドが、ふわりと緒のように舞った。舞台に立つ人みたいだ。場違いに感心してしまう。
「……あれ?」
後ろで半分ほど結い上げた髪に、見覚えのある櫛が挿さっていた。翠砂晶のドロップが高い音を立てる。間違いなく彼女に宛てたものだけれど、いつの間に渡していたのだろう。えっ? 昨夜、贈りそびれたまま寝なかった? ……
なんだかんだ疲れきっていたので、正直寝入りばなの記憶が定かでない。虚空を見上げて考え込むコーネリアスに、ハリエットはおかしそうに、「まだ半分夢の中ね?」と笑った。
「枕元に置いてあったわ。箱に三つの金貨が彫ってあったから、降誕祭の贈り物でしょう?」
「──あー、なるほど……」
リェンさんの気遣いか。櫛を入れて持たせてくれた、透かし彫りの木箱を思い出した。確かにクリスマスの聖人モチーフが入っていたような気がする。10年ほど前から市井に広まった、眠っている間に枕元に置かれる聖節の贈り物。言われれば思い出すけれど、紙の上で憶えたきりの知識がまるで身になっていない。
「素敵な櫛ね。嬉しい!」
「うん。きれいだ」
眩しさに少し目を細めた。素直に見たままを述べると、ぴた、と一瞬静止した少女はみるみるうちに真っ赤になる。おお、なんか、染色実験みたいだ。……
「あ、りがと……コ、コーネリアスにしたら、花とか星とかをきれいだって言うのと同じかもしれないけど……」
「さすがにそんなことはない」
笑ってしまった。あんなに歌劇俳優みたいに堂々としていたのに、急にもじもじ小さくなっているのが、人見知りの猫みたいだと思う。
「そ、そんなことないんだ……」
「リェンさん──採掘もやってるガラス職人の人が。その櫛を、天馬対策に持たせてくれたんだけど……櫛かあ、って、思った。その……平民にとっては、求婚だし」
「えっ──そんなこと、考えるの?」
「考えるよ!?」
素っ頓狂な声が出た。ハリエットの方こそ、人のことを植物か何かのように思っていないだろうか。いちおう16歳の、これでも生きた人間なのだけれど。
「この──翠砂って生物はすごい。月長石より魔力効率の優れた特殊魔石なんて、存在すると思わなかった。この櫛自体も、似合うだろうなって思ったんだ」
でも、迷った。何かを感じることに不慣れで、自分がかかわることに対する強い気持ちは、いくら探しても出てこなかった。おれは君に、安心して欲しい。言葉にして掴みとった瞬間の泣き出しそうな安堵を忘れることはないだろう。
そうか、そうだったんだ、と思った。水中から──やっと顔を出せたような気がしたのだ。
うん、と、納得するために頷いた。ふかふかの椅子の上で、様にならないなりに居住まいを正す。
「待って、……私に言わせて」
たどたどしく続きを話そうとしたコーネリアスをそっと制して、ハリエットはスプリングの効いた綿入りの座面に腰を下ろした。薬液で荒れた、骨の浮いた手をとる。
「あなたの事情を無視できると思っていてごめんなさい。思い上がっていたと思う。外からどう見えるか、教えてもらえてよかった。だから、謝らないでほしいの」
「……わかった」
それもまたもっともな言い分だったので、少年はしぶしぶ頷いた。地方の小貴族に睨まれただけで、丹精込めて育てた庭を棄てなければならなかった庭師の話を思い出す。身分差は時に、たやすく有形力になるのだ。そのこと自体は──いかに彼女が公平な人物であっても──忘れない方がいい。
ふふ、と、伏し目がちに握った手の甲を撫でながら、小さなため息の中に、ハリエットは笑いを洩らす。ミラにも叱られたわ──。
「将来──何年後にどこで何をして、なんて、計画的に生きられること自体が当たり前じゃないのよね。安定している人間の言うことだもの。いきなり先のことなんて言われても、考える準備さえできていない人だって、たくさんいるんだわ」
それは──そうだ。
学院を卒業してからでいいから、なんて、そんな日が確実に訪れるかも定かでない主家のスペアに、ずいぶん酷な話をすると思った。あれは確か秋だった。同じ人間とは思えない、と、容赦ない批評を第三者に語るほど、心の距離があった海嘯祈の終わり。
指先で相手の指を捧げ持ち、聖なる魔法使いは静かに身を落とした。聖職者や貴族女性の誓約の儀に好まれる、深い屈膝礼。
「今はもう違うと信じています。改めて願うわ。コーネリアス・フォン・シュピーゲル様。私と結婚してください」
利き手を預けたまま、コーネリアスは黙ってそれを見ていた。
シュピーゲル家をあらわす血のようなワインレッドと、平民によく出る、青い籾殻のような何の変哲もない榛。貴賎交配の証である二色の目は、抱えた問題が何も解決していないことを示している。
先のことなんて依然として分からない。どんなに虚飾を並べたって、ひとつもうまくいかない未来だってある。
たっぷり5秒以上沈黙していた少年は、つないだ指に祈るように額づいて、およそ考えうる限り正確に、胸のうちを答えた。
「能うならば」




