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memento

加筆しました!長くなりそうなので、一旦切ります。




 生理的なものでない涙を流したのは、いつぶりだろう。




 母が死んだのは、十三の冬だった。

 厳冬月生まれの少年が10歳になったばかりの春、シュピーゲルの領地とタウンハウスに住まいを移した。リュベージュの路地裏の家には時折戻るような暮らしとなってから、もうすぐ4年が経とうとしていた。

 ひどい流感をもらって、あっという間だった。

 こんなものか、と思ったことを憶えている。生き延びるために産んだ子を手放して、やっとこの人は自由に生きていけるのだと思っていたのに。息子を主家に入れるのと入れ替わりにメイドの職を辞した母は、商業都市の片隅で、細々と仕立てや繕いものなどをして過ごし、何も変えないままひっそりと生涯を終えた。

 同じ病で、少なくない人が命を落とした冬だった。肉親ですら直接触れることは許されず、覆い布で口元を覆った修道師たちが、薬草酢を絞った布巾で清拭をしてくれた。

 エルトゥヒトから始まった医療改革のおかげで、穢れとして扱われることはなくなったのだと、簡素な祈祷を済ませた司祭が教えてくれたことを憶えている。ぼんやりとしか憶えていないが──確かに、小さい頃はもっと、この病の死者は神に背いた咎人のような扱いを受けていたように思う。

 カフ付きの手袋に革の前掛けで完全防備した埋葬人が、清潔な麻布で母の遺体をくるみ、木棺に納めた。クラウスの兄妹が、目を真っ赤にしてそれを見つめていた。

 少年自身が涙を流したのは、そこから数日経った冬の日のことだった。感染者の家族は、教会の勧めにより、住宅街の外れにある石の霊廟に寄り集まって過ごしていた。強制ではなかったが、多くの者が従った。

 コーネリアスもその中にいて、同じ境遇の子供らに混じり、昼の支度を手伝っていた。ゆるやかなものとはいえ隔離施設なのだからと、何度進言しても毎日顔を出すウィレミナとマテウスもそこにいて、にぎやかな声が響いていた。

 そこで鐘が鳴ったのだ。

 公営墓地の一画、感染者用に区切られた区画に葬られた者たちは、個人名でミサを行えるような階層ではなかったため──流行病犠牲者として合同の追悼が行われた。そのための鐘だった。

 少し離れた場所にある教会の屋根から、香木を焚く薄い煙がするすると天に昇っていった。

 その煙を見ていたら、なぜだろう、自然と涙がこぼれた。身を切るような痛みも、崩れ落ちそうな激情も何もないまま、ただ静かに、空を見上げて泣いていた。

 ウィレミナが、ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、大きな犬にでもするみたいに抱きしめてくれたのを憶えている。先に泣き出しておいてなんだけれど、ミネの方がよっぽど辛そうだ、と、煙の行方をぼんやり追いながら思っていた。

 いま──淡く光る胞子嚢の上に浮かび上がる、幸福の象徴のような光景を前にして、止めようもなく流す涙とは根本的に違う。






「ヘーゼのお嬢さまじゃないか」

 不意に、すぐそばで声がした。焼きたてのパンみたいに肉厚の手のひらが、「良かったねぇ」と、くしゃくしゃに髪を撫でてくる。


「アカリゴケは、本当の記憶にしか反応しないんだ。空想や想像までは映さない。あの聖女様、こんな風に笑うんだねえ。普通のお嬢さんみたいだ」

「ハリエットは」


 普通の人だと思う、と、口をついて出た言葉の強さに自分でびっくりした。そんなことを思っていたのかと驚く、けれど、その通りだとも思う。


「普通に授業に出て、苦手な先生には困るし。ここにくる途中で屋台街に寄ったら、街歩きがしてみたかったって言ってた。聖乙女の祝福があったって、何も特別な人じゃない。普通の、学院生だ……」


 ひと息に言って、流れる涙を雑に袖で拭った。浮かび上がる光像が、タザルの港街で見たものに映った。チーズの串を意気揚々と頬張る少女の姿に、リェンはおかしそうに声を上げて笑う。


「ははは、また美味そうに食べるじゃないか」

「西側のチーズが好きなんだって、言ってた……」

「なるほどね。分かったよ」


 職人がアカリゴケをもとの窓際に戻すと、煙るように像も消えた。正面の席に座り直すと、選り分けてあった日影石の中から「ならこれがいい」と、黄色味がかった渋い色味の繭玉をひとつ取り出す。

 琥珀色──というのも少し違う。やや青みがかった、菜種油のような少し沈んだ色だ。枯れ草色とでもいうのか、とにかく一見して美しいとは言いがたい、ぼんやりした色だった。


「これ?」

「ああそうさ。今は暗いからあんまりぱっとしないかもしれないけど。こいつはインクルージョンが複雑でね。光を通すと、こんな風にキラキラ回るんだ」


 話しながら、リェンが当てたランプの光に伴って、ガラス片のような光の欠片がちらちらと天井に映った。水面を反射する月光のような、ささやかだけれど瑞々しい光だ。


「天井に映るんだ」

「きれいなもんだろう。明るいところで見ると、色自体も悪くないんだよ。燻し金、ってのはあんまり聞かないけどね」


 眠る時に置いておくものだし、別に華やかである必要はないか。確かにとてもいいような気がしてきた。

 よく見れば月の色と言えなくもない。天井をゆらめく光の破片を見ていたら、すとんと眠りに落ちそうな気がする。

 礼を言って石を受け取ったところで、飾り棚の置き時計が、ジリリと音を立てた。

 もう6時だ。


「あ、もうこんな時間か。宿に戻らないと」

「また青瑠璃亭かい?」

「うん。翠砂のことは、また明日にでも聴きにきていいですか?」

「なんせ引きこもってるからね。歓迎だよ。どうせなら聖女さまも連れておいで。一緒にいるんだろう?」

「ありがとう。きっと喜ぶ」


 壁という壁に造りつけの飾り棚が並ぶ、試作品だらけの部屋を見渡して頷くと、満足そうに腕組みをして、リェンも数度頷き返す。


「楽しみにしとくよ。──それにしても、噂はアテになんないもんだ。ヘーゼのお嬢さまが追い回されてる高位貴族って、それ、流星公だろ?」

「噂になってるんだ……」

「この辺じゃ歌劇なんかも滅多にかからないだろ。日刊紙が娯楽みたいなとこがあるのさ。ま、ああいうのは眉に唾つけて読んどくもんだ」


 道化じみた仕草で肩をすくめてみせた職人は、「そうだ」と小さく呟いて、おもむろに立ち上がると、暖炉のそばの飾り棚から櫛をひとつ取り上げた。


「パッヘルベルクってことは、あのおっかない神獣様がいるだろ。魔力を封じてくるなんて物騒じゃないか。翠砂も特殊魔石なんだ。いざとなったら魔力を取り出せるように、こういうのを持たしてやっちゃどうだい」


 差し出されたのは、鈍い銀の細工に、雫型の美しい翠砂晶がついた櫛だった。派手ではないが緻密な彫刻で、羽根のような、葉脈の走る葉のような繊細な形をしている。先端には羽軸にも茎にも見える細い爪が4本生えていて、髪に挿して留めておく造りになっているのだろう。

 きれいだ、と思った。装飾的なことはよく分からないが、きっと似合うだろうとも。それでいておおいに逡巡したのは、髪飾りという品の性質ゆえだ。

 貴族の間では専ら指輪がその役目を果たすらしいが、市井の者が婚約や結婚の際に交わす贈り物として、圧倒的に選ばれるのは髪飾りである。質素倹約や労働に抵抗はなくとも、平民の文化そのものにはさほど造詣の深くないハリエット相手に、気にすることはないのかもしれないが──いったい全体どんな気持ちでそれを渡すことになるのか、自分でも分かっていないのに、そんなことが許されるのだろうか。

 さすがに──不誠実ではないだろうか。




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