Hilli
「ありがとう。退がっていただいてけっこうです」
「ごゆっくりお使いくださいませ」
ハリエットがそう告げると、浴室係は慎ましく頭を垂れた。沐浴として浴室を使いたいので介助は不要、と告げた以上、お寛ぎください──と言うわけもいかなかったのだろう。あまり耳慣れない文句とともに湯殿をあとにする。
宗教者による斎戒沐浴が、極力介添えの手を借りずに行われるのは、至極一般的なことだ。ゆったりとした屋内着を脱ぎ捨てて、ハリエットは貴賓室付きの湯殿に足を踏み入れた。
大柄な大人が両手を広げて、かろうじて指先が届かない程度の、四角くくり抜いたような青白いスレートの石畳。膝を折って身を沈めるのにちょうどいい広さの小さな湯殿に、セージの葉を浮かべた湯がたっぷりと張られている。
上位貴族や神職の間に、この全身浴の文化を広めたのは他でもない聖女の母である。連邦北部──特に都市部において、公衆浴場は男女混浴の遊興施設とされた時代があった。公衆衛生の観念から動線と構造を整理し、社会福祉として整備し直したのが、ブレオステハ大修道院長の宗教改革の柱のひとつだ。
細いアーチ窓を背に、膝を抱えて座り込む。
湯船の四隅に、黒々とした玄武石が静かに沈んでいる。休火山の火口に棲息する魔法生物は、これまた繁殖に有利とも思われないのに、火傷しない程度の熱を発し続ける性質をどうしてか持っている不可解な鉱石生物だ。火の番を置かずとも、ほどよい温度の湯を保つ便利な道具として、宿泊施設や医療機関、果ては軍事遠征まで幅広く用いられている。
ぽちゃん、……
ほう、と、丸い息がこぼれた。
久しぶりにひとりになった気がする。幼い頃から人に囲まれ、一挙手一投足に視線を集めることが半ば当然として生きてきた少女にとって、入浴は数少ない、沈黙を味わうことのできる時間だ。
何も──。
考えずにいる。
ジジッ。
粗紙を破くような音がして、壁際に置かれた時計の結晶がⅤを示した。静かな宿場町に、波紋を広げるような暗闇が染み入っていく。
姿勢を崩すと、溢れた湯が静かに床のタイルを叩いた。ガラス工芸の街らしく、破璃のかけらを寄り集めたステンドグラスのような模様が、不規則に点々と散らばっている。
マルデレは美しい街だ。
初めて来たけれど、いっぺんに気に入ってしまった。華やかな歓楽街でも景勝地でもない静かな工場町。王家肝入りの商館取引所の建設を控え、新たな貿易都市として急速に成長するパルウェンテや、ブルジメール家の支配が強く残る古都バルナブトなど、タザルからブレオステハまでの移動の軸足として、ふさわしい街は他にもあった。ハリエットがひとりで王都から帰還するとしたら、まず挙がることのなかった選択肢だ。
──翠砂晶。
──きれいだった。
マジックバッグに潜ませたインク壺の、貴石よりも貴石らしいオリーブグリーンを思い浮かべる。
大司教様の聖遺物箱。十字架、礼拝堂の宝飾にも。若葉のような緑は、心強さを感じるあらゆる聖具の中にあった。リュネク大聖堂の三賢者廟。聖王が戴冠式で授けられる、王冠の周囲を飾る無数の──。
──えっ?
水面を見つめていた少女ははたと思い当たる。王冠だの聖廟だの、雲の上の翠玉について四の五の言っている場合じゃない。
どう考えてもこの目の前に映る、一番身近な人間の瞳の色にぶっちぎりで似ている。
ギギギ、と、軋みを立てそうなぎこちない動きで、壁の鏡を見た。
──目じゃん。私の。
ざばっ、と、音を立てて立ち上がる。
いやいやいやいや。
嘘でしょ。
どうして気付かなかったんだろう。えっ? 本当に気付かなかったの?
「本当に……気付かなかっ、た……」
ぽたぽたと湯船に雫が落ちる。のぼせるような温度でもないのに、カーッと顔に血がのぼった。
ざぶん、と、元通りその場に座り込む。
ホントどうしよう。自分の瞳の色を贈るって、重くない? 重い通り越して普通に怖くない?
宝石じゃないからセーフ? 貴族の慣習なんか気にしないかな?
いやでも求婚して断られたのにこれってどうなの?
確かに、あの頃とは比較にならないほど、関係性に変化があった確信はある。今思うとよくあんな浅い関係で求婚したなと思う。それはそうなんだけど。そうなんだけど……!
コンコン。
「あっ、ハイッ!?」
不意にノックの音がして、思わず声が裏返った。壁の時計を見ると、かなり明るい藤色に近づいている。
浴室係の落ち着いた声が、扉越しに響く。
「──失礼します、聖女様。そろそろ規定のお時間でごさいますが、湯中りなどなさっていませんか?」
「ごめんなさい! 大丈夫です! 今上がります!」
サプライズの前にいったんクールダウンして、冷静に渡すタイミングを測るつもりが、入る前よりよほど動揺しながら浴室を出てくる羽目になった。
結局何も決まっていない。
えっこれ本当に、どうすんの……?




