翳りゆく部屋
「こちらこそ、重ねて失礼いたしました。そちらの棚以外でしたら、ご自由にご覧いただけます。何かお探しのものはございますか」
あまりこういうことはしたくなかったのだけれど、貴族らしい所作をわずかに覗かせただけで、詰襟の店主はどこぞのご令嬢のお忍びか何かだと了解したようだった。恭しく頭を垂れ、さして広くはない店内を指し示すように片手で示す。
ハリエットとしては、とにかく邪魔をしないでもらえれば良かった。ただ、こういう目利きの集まる富裕層向けの店は、独自の基準でディスプレイが分けられていることも多い。窯か、用途か、色調か──パッと見では分からないことも珍しくないため、尋いた方が早いかと思い直した。
「ええ、贈り物に。携帯用のインク壺を」
「さようでしたか。でしたら、右手奥に筆記用具がまとめてございます。ごゆっくりご覧ください」
ともあれ、やっと落ち着いて探しものができそうだ。少女はほっと肩を竦めた。変装までしてこっそり宿を出てきたのに、まったく空振りではあまりに情けない。
店主が目線で示した壁際の陳列台は、はめ殺しの小さな窓の下、日の入り前の光が美しく差し込むよう計算されたディスプレイだった。染料が沈殿しやすいインク壺らしく、濃い色を中心に、大小さまざまな壺が等間隔に並べられている。漆喰の白に細かい光の粒が反射して、そこだけ複雑な模様を描いていた。
ハリエットが気になったのは、窓のすぐ下、濃紺のビロードの上に置かれた、鮮やかな青が美しい銀装飾の壺だった。海のような深い青に染められているのに透明度は高く、これならインクの残量も見て取れそうだ。蓋も銀でできていて、細かな装飾が施され、頂部に小さな尖塔のような飾りがついている。
「ネヴァジラングラスの壺でございますね。マルーノグラスの一級品になります。ガラスも厚手でしっかりしてございますし、持ち歩きにも良いかと」
少女の目線が止まったことを目敏く察知して、流れるように説明がなされた。一流の店らしく、痒いところに手が届く接客ではある。
マルーノ島といえば、鉛を含まないソーダガラスを伝統的な吹きガラスで仕上げた、500年近い歴史を持つガラス細工の名産地である。蔦のように這う銀細工もしっかりとしていて、質の上でも申し分なさそうだ。
ロールバッグの形が若干変わるほど、無理やり押し込んであった古いインク壺を思い浮かべる。テーゲル天文台長からの品だけあって、ものとしては良さそうだったけれど、消毒液の瓶か何かのように無骨で味気なかった。
澄んだ青ガラスをもう一度眺める。
……。
落差すごすぎ?
「よろしければ、お手に取ってご覧になりますか」
「そうさせてもらえる?」
持ち歩くものなので、一度は持ってみたかった。手触りもよく、ハリエットの魔力なら重さも当然気にならない。自分のものであればきっと、これに即決していただろう。なんの買い物をする時でも、長々と悩むのは性に合わない。
──そうね。
迷っている時点で、何かが違うという気持ちがあるのだろう。文句なく美しいけれど、贈りたい人が持っているところの想像がつかないのだ。
こういう直感は大事にすると決めていた。店主に礼を言って、商品を台に戻す。
「ありがとう。まだ時間もあるし、もう少し悩むわね」
笑って店を後にしたものの──正直あてが外れてしまった。マップをざっと見た時は、この2軒のどちらかで間違いないだろう、と思ったのだけれど。
「まあ、明日もあるしね」
うーんと伸びをしながら、元きた道を歩く。遠くから見える教会の塔時計は、IVを指そうとしていた。陽はぐっと傾き、ほとんど黄金色の黄昏が街に降り注ごうとしている。気の早い店の夕餉の支度が、スパイスの混じった湯気の匂いを通気口から漂わせていた。
ふと──。
近道をしてみようと思った。初めて来る街で、道に通じているわけでもないのに。好奇心を抑えることのできない、ハリエットの悪い癖だ。
入り込んだ先は、急に薄暗い路地だった。
小さな革細工や金具屋がひしめき合っていることは確かだれけど、かろうじて吊り看板が出ているのはたった一軒だ。それ以外の店は、おざなりに職人の名を書きつけただけの板の切れ端が立てかけてあったり、下手をすると建付けの悪い戸を水甕で塞いでいるものまである。
青瑠璃亭の落ち着いた門構えや、目抜き通りの賑わいは目と鼻の先だ。たった角ひとつ隔てただけで、別世界のような沈黙が広がっている。
燃える薪や墨の匂い、窓辺にちらつく青いガラスの光、生きている工房の群れの中にいるのは間違いないのに。
〝ꏜꀊꀒꄛ〟
これも職人の名だろう。「ラウトの店」という程度の意味しかない、味も素っ気もない苔むした木板。軒下に割れた壺のかけらや藁包みが無造作に積まれている。
半地下のようになった入口を数段降りると、奥に向かって細い通路が伸びていた。いや、両脇を背の高い棚がみっしり埋めているせいで、通路の方が狭くなっているのだ。
至るところにガラスが並んでいる。
天井から吊られているのは、吹きガラスに使う道具だろうか。
フシュ──……ッ。
木の洞のような突き当たりの暗がりから、翼を休めるワイバーンの吐息のような、独特の音がした。
ハリエットの足は、弾かれたようにそちらへ向かった。
──窯があるの? この奥に?




