ミュミング遊行1 ─ファンダレイン商圏
心臓が痛い。肺が冷たい。刺すように冷え切った空気を、それでも吸うしかない。
こんなに走ったことはない。猟犬をけしかけられた時だって、今ほど死にものぐるいでは走らなかった。
違うか。あの時は、魔法が使えた。
「リュベージュの仮装巡行? 行くの?」
いいなあ! と言葉以外の全身で発しながらハリエットが目を丸くするので、笑ってしまった。
王都の北、かつては軍港としても栄えた聖国最大の貿易港と運河の街。リュベージュの降誕祭は、貴族から平民まで幅広く根づいた独特の文化がある。
それが「仮装巡行」である。
職能ギルドや集落を挙げて、それぞれのテーマや象徴をあしらった仮装を身にまとい、酒場や旅籠をねり歩く。
もともと商人街の祝祭として萌芽はあったその祝祭を、一大イベントにまで引き上げたのは、他でもないかのトレンレーツ商会の長である。
本当に興行ごとに目がない。
かくして──上は王族から下は農村の子どもらまで、ファンダレイン商圏の降誕祭は、色とりどりの衣装と無言劇で埋め尽くされる七日間となった。
たかが祭りと侮るなかれ。その場に居合わせた者なら誰でも票を投じられるコンペティションが行われ、最終日の午前0時には、最も優れた仮装に選ばれた作り手が「無法王」として即位する。王の権威は、夜明けとともに解かれる程度のささやなかなものだが、そこから次代の選出まで一年にわたって、王の帰属する集団はにさまざまな便宜が計られる。目の色も変わろうというものだ。
「ハリエットも来る? ついでに仕事を手伝ってもらえると助かる」
「お仕事で行くの?」
「まあ、仕事というか、無茶振りというか……」
コーネリアスがこの時期のヴァンダレインに招かれているのは、魔法使いギルドの仮装を手伝うためである。人使いの荒い兄妹に、アイディア出しから実装まで馬車馬のように働かされる。ちょっとした小遣い稼ぎにはなるし、領地に戻ってろくでもない目に遭うより遥かにマシだから、別にいいのだけど。
「魔法使いギルドのマスターのところのご兄妹よね。昔から仲がいいの?」
「ほとんど生まれた頃からの付き合いだからね。領地に引き取られるまで、隣の家に住んでたんだ」
魔法使いのくせに──偏見──やけに陽気で社交的な兄の思いつきに任せて、手当たり次第に呪符や道具を作っていたことを懐かしく思い出す。魔力量もしごく人並みなコーネリアスと違って、ギルドマスターの子らはさすがに錚々たる実力の持ち主で、つまり割と、ひどい時はひどい事になった。
旧校舎と同じくらいの面積の干潟を誤って出現させてしまった時には、さすがに「詰んだ」と思ったものだ。剛毅な兄妹はけろっとしていたけれど。
「そうなのね。お兄様のマテウス様にはお会いしたことがないけど、ウィレミナさんとは実技でときどきご一緒するわ。元気な人よね」
「兄貴はあの5億倍元気だよ。僕なんか喋ってるだけで疲れる。ドレインのスキルでもあるのかって思う」
思い出しげっそりとはこのことだ。ため息とともに呻くと、ハリエットはおかしそうにくすくすと笑って、じゃあ楽しみにしているわ、と言った。
王都からリュベージュまで、馬車で半日ほどだったろうか。まっとうな交通手段で行かなくなって久しいコーネリアスにはもうよく分からない。子爵令嬢を、辻馬車に毛が生えたようなギルドの足に乗せるわけにもいかない。転移魔法は過去に通過記録がないと食べないし──と、つらつら考えていると。
遠足の前の子どもみたいに拳をぐっと握りしめて、それは楽しそうに、お姫様は言ったものだった。
「出かける前にちょっと寄れば済むかしら。それとも事前に手続きして行ったほうがいい? 魔法使いギルドに登録すればいいのよね!」
「えっ?」
今日は隙を見てもう一つ投稿します。