菩提樹と深海の人
『朝食……? 高所結界の紋が見えるけど……?』
「そうよ?」
熾火の上につるした鍋を取り出しながら、ハリエットはこてんと首を傾げた。ちょうど沸騰したところだ。結界を解けば、ぐらぐら煮立っていた水面がすうと凪いだ。ふくふくと幸福そうな湯気が朝陽の下にたちのぼる。
うん、ちょうどいい。すぐ薬湯にして飲めそう。
第五元素──神職の間では神の息と呼ばれる大気中の成分を減らすことで、高地の環境を再現するのが高所結界だ。山の上ではなぜか、地表より低い温度で湯が沸く。高所で暮らしたことのある修道者には常識である。
「熱すぎないお湯が早く沸かせて便利なのよ」
『それはそうだけど!?』
そういえば、フローリスと同じ修道院でお勤めしたことないわね。ポットに湯を移しながら、ハリエットは今更のように思い至った。
確かに「神の息」の濃度をコントロールし、高度な治療室や儀式の構築に用いるのが高所/低所結界の本来の用途ではあるけれど──一度でも姉と一緒に聖務日課をこなしたことがあれば、この方法で湯を沸かす姿などいくらでも目にする機会があったはずだ。
『そっちの鍋の上にあるのは、土魔法の陣だねぇ……』
『ええ。遠征で、蓋の上に重石を載せると早く火が通るって教わったの。これは地縛の応用で、蓋をギューッて押しつけて」
『鍋の中身潰れない!? スープとかでしょ!?』
「コツがあるのよ」
『影縛りなんて、捕物か軍事作戦ぐらいでしか見ない魔法を、こんな平和利用されたら開発者も驚くだろうね……』
対象者の足を大地に縫い留め行動を封じる物騒な魔法だが、絶妙に加減され、鍋に蓋を落とす生活の知恵と化している。とてもすごい。すごいが、改めてこう、よその台所という家内以外の場所で目にすると、父として複雑な感情もあった。
丸眼鏡を外して拭いながら、グステンはやや遠い目をする。ヒルデが見たら絶賛するだろうなぁ。
「あっ、ほら。もう温まったわ。おいしそう。便利でしょ?」
少女は得意げに蓋を上げ、ほどよく火の通った熱いスープを父と弟に見せた。フローリスは一瞬何かを言おうとして──諦めたように肩を竦める。
『便利かそうじゃないかで言えば、便利だけど』
『君はこっち側の人間だねえ、フローリス』
自分と瓜二つの顔立ちで、父そっくりに肩を竦める弟を見て、ハリエットは思わず声を上げて笑った。
「ふふ。……コーネリアスが起きてなくて残念だわ。見せたかった。私の魔法の使い方に驚くけど、こうするともっといいかもって、びっくりしながら言うの」
目を開けたら、窓を差し込む陽の光に照らされて、布が舞っていた。
意味が分からないが、そうとしか言いようがない。なんだこれ、と思いながら、コーネリアスはのろのろと身を起こした。
ものすごくよく寝た。
目をこすりながら、高い背もたれに身を預ける。調理台に向かっていた少女がこちらに気づき、ぱっと顔を輝かせた。
「おはよう、起きたのね! 何か飲めるなら、飲んだ方がいいと思うわ」
「おはよ……」
喉が渇いていたのか、声を出すと空咳が出た。かすかに湯気を立てるカップがすかさず差し出される。少し緑がかった琥珀色の、花の香りの薬湯。
口に含むと、ほのかな甘みが広がる。
「花だ……」
なんと意味のない感想だろう。自分で言ってびっくりしてしまった。知っている花であることは分かったが、何の花か分からなかった、という感情がそっくりそのまま言葉になってしまった。ハリエットは優しい顔で、「菩提樹よ」と頷いた。
「あの、広場にある木?」
「そうね。広場にもあるわね。修道院では乾燥させた花を薬湯にして飲むのよ」
「へぇー……」
まだぼんやりしている。身体に良さそう、という、またしても言わない方がましな言葉が浮かんで消えた。まずそうに聞こえる気がして、ギリギリ口にはしていない。かといって他の言い回しも出てこない。いや、すげえうまいんだけど。
これは、完全に思考が停止している。
細かいことを諦めて、天井近くでふわふわ舞うリネンをぼんやりと眺めた。
「布が飛んでる……」
「洗ったの! お母様のお部屋、借りてたでしょう」
なるほど、洗濯した布を乾かしているのか。なるほど?
小さな竜巻のような風に巻き上げられて、晒し布やシーツがくるくると、縦に円を描いている。ただの風ではなく、この距離からでも肌に触れると暖かい。浮性も付与しているのだろう。器用だ。
大人が両手で抱えられるかどうか、という狭い範囲でコントロールしているのだから、とんでもなく精度は高い。とてもすごい。すごいけれど、これ、大変じゃねえかな。
何か囲うものを。円筒状、筒、管、のようなもので、くるむイメージ。……
「あー、そっか」
納得したように頷いて、少年は巻き上がる布ごと、風の柱をシールドで包んだ。帆柱や竿など長物を強化する、なんの変哲もない生活魔法だ。
シュン、と、柔らかい音が風を封じ込める。
「たぶん、この方が楽……って、どうした?」
「ふふふ、ふ……なんでもないわ、あはははっ」
鍋を両手に持っていたハリエットが、いきなり声を上げて笑い出した。そんな爆笑されるようなリアクションだったろうか。ぽかんとするコーネリアスを見て、笑いすぎてにじんだ涙をぬぐうと、少女は大きく息をついて、等間隔にパンとスープ皿が並んだ、向かいの席につく。
「ごめんなさい。びっくりするわよね」
「あー、うん、びっくりは、した……」
そうよね、と頷いて、ハリエットは食卓に置いた鋳鉄鍋の蓋をあげた。
根菜の甘い匂いが広がる。
「さ、まずは朝ごはんにしましょう。それから、私の話を聞いてくれる?」




