モブとヒロインと私
「え、モブじゃん」
「は? 死刑」
「令嬢が死刑とか簡単に言わない」
「何をふざけたこと言ってますの? ぶっ飛ばしますわよォ──」
大絶叫である。目が据わっている。酒も飲んでないのにこの荒れよう、つくづくこの書き割りみたいな顔のモブは罪な男だ。
リュドミラは手にしていたモブ男の学生証を置き、丸テーブルに突っ伏した友人の豊かなストロベリーブロンドを手持ち無沙汰にかき混ぜた。とんでもなく手触りがいい。子猫でも撫でているのかと思った。
リュドミラ・ファン・トレンレーツ。同世代の娘より頭ひとつふたつ抜けた長身と、少年のように深緑の短髪が人目を惹くのは自分でも心得ている。意志の強そうな吊り上がり気味の目は、鷹のような黄金色だ。
王都を中心として、広大な連邦国家であるオマール西部を股にかける、押しも押されぬ商人貴族である。ハリエットと同じく、学院には襲爵資格のために通っている。商売のことしか頭になさすぎて、うっかり学内のカフェテリアで出店の真似事を始めてしまったのはご愛嬌というやつだ。許可取り大変だった。
そういえばこの許可を取るのに、この書き割りモブには世話になった気がする。あまりにもモブ顔すぎて今の今まで忘れていたけど、めちゃくちゃ頭いいんだったこいつ。
「別にいいでしょ、モブ男の魅力はハティがわかってれば」
「それはそうだけど、心外なものは心外だわ!」
「だる」
「……ミラこそ、王都の貴族としてその町娘みたいな振舞いはどうなの」
「私はいいんだよ別に。商人と垣根があったらそっちの方が困るし」
ふうん、といかにも不服そうに大きな目を眇めるハリエットを、つくづく可愛いなこいつ──と感心しながら眺める。芸術支援も手がけるトレンレーツ商会の跡取りとして、浴びるほど観漁っている舞台の上でも、こんな美少女はそうお目にかかれない。おまけに気が優しくて力持ち……はともかく、現状ただ二人の学院特待生。ちょっと問題解決がパワーに頼りがちな点に目をつぶれば、ほとんど完全無欠のスーパーヒロインだ。
──聖魔法まであるんでしょ?
盛りすぎである。リュドミラが歌劇の興行主だとして、脚本家がこんな筋書きを上げてきたら最低でもひとつふたつは削らせる。
「で、この学生証どうすんの?」
「返すゥ……」
「拾ったんだもんね? 鑑賞したりしないですぐ返すよね? えらいえらい」
「あのストーカーと一緒にしないで! 追跡魔法だって仕込まないから!」
食い気味に抗議され、さすがにドン引きした。追跡魔法って。
ソレが次期公爵……、大丈夫なのかこの国。
「ヘーゼさん!」
「あら、レイホーヴェさん」
大きめの小声という器用な発声で呼び止められ、振り返った先には、珍しく焦った様子の気のいい友人の顔があった。肩ほどに切り揃えた紺碧の髪に、黒目がちな丸い目は小型犬を彷彿とさせる愛嬌がある。いつもは幸福そうに蒸気している花の顔に、今日は強い警戒の色を滲ませていた。
声に出さず、小さな唇が動く。
──来るわよ。
「うえっ」
さすがに貴族令嬢らしからぬ呻き声が洩れた。一も二もなくテーブルの学生証を掴むと、猛然と立ち上がるハリエットの後を追って、リュドミラも勢い良く走り出す。
「ありがと、カタリナ」
振り返りざま早口に告げると、まだ少し緊張した面持ちの友人はこくこくと頷いた。持つべきものは──国政に食い込む情報通の友!
執政官の子女に目撃情報流される公子ってどうなんだ。
はあ、はあ、……
ダッシュで逃げた先は屋上庭園だった。高位貴族が好む本校舎側ではなく、植物魔法や土魔法の研究者が主に使用出入りする、旧校舎の屋上だ。全体的に陽当たりは悪いが風通しは良好で、こぢんまりとした雰囲気が落ち着く。
丸い校舎の天蓋全体がドーム状になっており、古い石造りは飾り気なく質素で、質実剛健、実用重視の姿勢がリュドミラのお気に入りだ。
「ダメだ〜……運動不足だわ。乗馬とか増やさないと」
「わた、しも……魔法に頼りすぎ、だわ……」
螺旋階段を駆け上ってきた二人は、息も絶え絶えにドームの柱にもたれかかった。旧校舎は人気が少なく、警備も手薄なため、王宮魔法使いによる高度な結界にすっぽりと包まれており、使える魔法が極度に制限されている。自分の身くらいは守れるよう躾けられた商家の子はもちろんのこと、聖乙女の加護持ちであっても、その制約からは逃れられない。攻撃に転用しづらい魔法は使えるものの、それもこの屋上だけだ。徹底している。
「あー、まあ……ここまで来れば、あのストーカーも諦めるでしょ」
「万一追って来たところで、得意の魔法で私を誘拐することもできないものねふふふふ」
「怖い怖いハリエットさん。完全に目がキマってる」
「『ここは人目が多いな……そうだ、王宮まで空の散歩はどう?』とか言いながらいきなり風魔法で引っ張り上げられればわかるわよ。鉄拳制裁しないだけありがたく思って欲しいわ」
「殴らなくて偉いわホント。臣下の鑑」
微妙に似ている物真似にいっそ気の毒になった。それだけ日常茶飯事だったということだ。遠い目をする友人の肩を叩いて、リュドミラは柱の側にあったテーブルセットを中心に押し出す。
「清浄なら使えるよね」
「生活魔法は大丈夫だったと思うわ。……ありがとう」
蔦と砂埃を払い、元の白さを取り戻した椅子で休息にありついた。大事そうに学生証を置くなり、力尽きたように突っ伏したハリエットの向かいで、リュドミラも背もたれに身を預けた。
吹きっ晒しのように見えるこの屋上は、その実分厚い空気の層で外気と遮断されている。さすが王宮魔法使い。人の目の届きにくい、細かいところにも決して手を抜かないのだ。
精密な結界が、建物の形ほぼそのままに、塔全体を覆っているのがここからも見える。
冬の鳥の声がした。
ここが温室——とは言わないまでも、常温を保つよう管理されていることを教えてくれたのも、そういえばあのモブだった気がする。モブモブ言っているのがそろそろ申し訳なくなってきた。遅いわよ——と、目の前でのびている友人なら怒るかもしれない。
学生証の写し絵をじっと見てみる。
光魔法と紙魔法を併用した、この映写技術はハリエットの母が考案したものだ。さっきからモブだのヒロインだの言っている、作劇論という観念を打ち立てたのがリュドミラの母であるならば。偉大な人の後継同士、この学院で出会ってからというもの、ずっと助け合って生きてきた。あの公子殿下から友人を最初に助け出したのだって、トレンレーツ商会の魔道具だったのだ。ちょっと強引に幻覚は見せたけれど。
シュピーゲル家の庶子。紙面に刻まれているのは、おおむねそうとしか読めない情報だった。貴族社会はある意味機械的で、冷酷である。家名を与えられているものの、その者は器である、としか解しようのない表記だ。騎士の家の子の全名は、本来ならもっとずっと長い。
おまけに左右の目の色が違うときている。著しい貴賤交配の場合のみ起きる現象とされており、地方貴族の末子であるシュピーゲル家当主との間に生まれた子なら、母は平民かそれに準ずる身分——ということまでは、ここに載っている情報だけで見当がつく。燻んだヘーゼルは、平民に出る色だ。
学生証を——不注意で落とすような質にも見えないが。
はあ——。
人知れず、ため息がこぼれた。
不穏だな。不穏だ。なんだってまた、こんな厄介に入れ込んでしまったのだろう。完全無欠のヒロイン様ともあろうものが。
台紙に写し込まれた顔立ちはなんともぼんやりとしていて、とてもじゃないが一度見たくらいでは憶えられそうにない。別に不細工とは思わないけれども、特別整っているとも言い難い。どこにでもいる暗い顔である。
見た目が全てとは——あの変態ストーカーも顔面だけは特上だし——言わないけれど、それにしたって箸にも棒にもかからなすぎやしないか。
まあ——。
めちゃくちゃ頭はいい、のだ。それは認めざるを得ない、けれど。
「——おおおお! スゲー!」
「これで遮音効果が——あれ?」
トレンレーツさん、と、磨りガラスみたいな声がした。声変わりの終わりが近い、独特の痛痒感が風の膜を震わす。
学生証に刷られたものよりはいくらか生気のある顔が、友人らしき黒髪の少年と連れ立って蔓の向こうから現れた。指先でつまめる程度の、見慣れない金属の小箱を持っている。おおかた改造魔道具でも試すところだったのだろう。人気のない屋上なら、多少失敗しても被害は小さい。
「モブ男ー、何してんのこんなと」
みなまで言い終わる前に、手のひらでスッと制止された。反射的に口を噤む。
「……寝てるみたいだけど」
「え? うわ、ホントだ」
潜めた声の示す先に目を向けると、丸テーブルに突っ伏して、寝息とともにすうすう上下する長い髪が、はらりと一房落ちるところだった。ストーカーから逃れた安堵と疲労で限界を迎えたのかも知れない。ただでさえ最近、心労も重なっていたのだし。
そう、心労。
——こいつのせいでな!
いきなり思い出したリュドミラは、ギラリと鋭い眼光を少年に向けた。モブは一瞬ビクッとして、「な、何?」と挙動不審な上目遣いを向けてくる。
白々しい。心当たりがないわけがないのに。
なんで、こんな、奴が。
「——や。なんでもない」
ふっと力が抜けた。この野郎——とは思うけれど、一方でこいつは圧倒的に正しい。自分のことも、ハリエットのこともよく分かっている。
ハリエットは、いわば正ヒロインだ。あまりにもまっすぐで、何なら脳筋で。小貴族の非嫡出子みたいな、見るからに七面倒くさい相手を婿に取る困難も、愛と正義でぶっ飛ばしていけると心のどこかで思っている。王都は無理でも、領地ではきっと誰もが理解者で、祝福されると信じられるから——根回しも何もなくいきなり求婚などという蛮行に出たのだ。
自分の立場では断れない、と。
目の前の少年は真っ正直に言ったらしい。もうちょっとこう腹芸とかないのかよ。それでいて、この上ない誠実な対応ではある。脳筋をへし折るには、並のバッサリでは通じないのだ。こいつらはどこまでも前向きで、屈託がなくて、ほんの一縷でも希望があるならば、決して諦めないからだ。
こんな自分が——とか、家格の差がどうとか、気を持たせるような卑下でお茶を濁していたら、この友人はきっと、今のようには思い切れていない。
生きていく世界そのものが違うのだ。そう、ちゃんと教えてくれたことには感謝している。
「ハティー。起きなー」
「えっ」
熟睡しているハリエットの肩を掴むと、おもむろに揺すり始めたリュドミラを見て、少年たちは間抜けな声を挙げた。まさか起こすとは思わなかったのだろう。でもこのまま寝かしとくわけにもいかないし、ねえ。冬だし。
ぱち、と、音を立てそうなくらい大きな若緑の目が開く。
「……ミラ?」
「おはよ」
「私、寝ちゃったのね」
「ストーカーから逃げ回って疲」
──ブンッ。
言い終わるより早く、鈍い空気の振動とともに、薄いシャボンのような膜が3人を呑み込んだ。うっすら虹色を帯びて、透き通った薄い薄い膜だ。それでいて、外の音はほとんど聞こえない。外にひとり取り残された黒髪の少年が、何やら慌てているらしいことが気配で伝わってくる。
モブ男──そういえばこいつは魔法使いだった──が開いた手のひらの上に、あの小さな箱があった。明らかに混ぜ物の方が多そうな板金が、魔力を受けて弱く明滅している。
──魔道具か。
遮音がどうとか言ってた。ような。
「……ああ、ごめん。起動しちゃったみたいだ。うん、どこにも行ってない。ディルクに見えないなら多分成功だね。……うん、うん。30分くらいで解けるから。じゃあ」
片耳に手を当てて、慌てる友人を──おそらく──通信魔法越しに煙に巻いている。適当に言いくるめて帰そうというのだろう。
こいつ、何でもない顔で嘘つくな。どこにでもいる暗い顔をしげしげと眺める。
案外図太いのかもしれない。
「……危ないことはしないで欲しい」
外の気配が消えるなり、思ったより強めに釘を刺された。完全に真顔だ。
そりゃそうか。ストーカーに遭ってるだなんて穏やかじゃない話だ。ハリエットが公子殿下に迫られている話は、今や学院中の噂なのだ。この場で突っ込まれて対象を名指ししてもしなくても、うん、ろくなことにならない。ぐうの音も出ない。
「ごめん。今のは油断しました。ホントすいません」
「ごめんなさい……」
両手を挙げて降参の意を示しながら詫びると、ハリエットまで悄然と頭を下げた。
「ハリエットが謝ることじゃないでしょ」
「ハイハイ、私が謝るとこだよね今のは」
「トレンレーツさん、は……」
何もない虚空を見上げ、数瞬考え込んだあと、少年は困ったような顔で肩を竦める。
「……いや、よく考えたら僕に謝るようなことでもないな。とにかく、気をつけて欲しい。実物見たことがあれば分かると思うけど、何するか分かんないでしょ、アレ」
「よっぽどやばいと思うけど、この中なら大丈夫なんだ?」
「あー、たまたまさっきのやつの頼まれたっていうのもあるけど。どっちかというと、このために作ったからね、これ……」
物憂げな視線が、巨大な皮膜をぐるっと一周した。金属製の小箱を、無造作にハリエットの前に置く。
「ちょうどいいや。このまま渡しちゃおう」
のっぺりした合金の、味も素気もない小さな箱だった。先端にチェーンがついていて、一応身につけられる形にはなっていた。装飾も何もないけれど、いわゆるペンダントボックスの類だ。一見すると貴婦人の薬籠にも見える。
「この前言ってた魔道具? コーネリアスが作ったの?」
「認識阻害と遮音、あと転移魔法を一回分。付与するだけで限界だった。真鍮と黒金──の配合は変えられなかったから、上からメッキを吹いてある。あんまりいい色じゃないけど勘弁して」
「そんなことないわ。──嬉しい」
嬉しい、と、噛み締めるように繰り返して、ハリエットの手が箱に触れる寸前。「あ」と気の抜けた声がそれを制した。
「試作品だったから何も彫ってないけど、そうかハリエットに渡すならこっちのがいいか」
少年が手を翳すと、一拍置いてつるりとした鏡面に、細い溝がつうと入った。ジジ、ジ……と、蜂の羽音のような不規則な振動が響く。
何か——彫っているのか。
血のような赤とヘーゼルの瞳、それ自体が金属を穿つような熱を帯びる。
楽しそうだ。
「風魔法……? でも、旧校舎では」
「彫金の魔法。結構古いやつ。憶えるの大変だった」
ジュッ、と短い結びの音がして、無垢だった合金に双塔の絵が刻まれる。パキパキと細かい欠片を落としながら、ꀮꇌꀑꋿꄮꉳの銘が続いた。教会領の大修道院の名前だと、およそ敬虔とは言い難いリュドミラのような学生にもわかる。
「……こんなもんか。だいぶ絵心がないけど」
「そんなことないったら!」
今度こそ、小さな箱を抱きしめるように胸に当てて、ハリエットは泣きそうな顔で笑った。
──怖い。
あくまで彫金の仕上がりを検分しているだけの、覇気のない横顔を眺めながらリュドミラは思った。こういうのを人たらしというのだ。きっとあまりにも、誰にも興味がないせいで、底なしの善意を向けてくる。これで他意がないなんて信じられない。
けど。
ないのだ。
「薬籠だと、場所を選ぶけど。これだと聖遺物容器にも見えるでしょ。教会領の令嬢なら、肌身離さずつけててもおかしくない」
「転移魔法? ロケットペンダントに? うっそお」
「強引に入れたから、一回使うと粉々になる。本っ当にやばいときに使って」
リュドミラが思わず口を挟むと、そんな機会がない方がいいけどね──と、魔法使いはますます遠い目でぼやいた。
押しも押されぬ王都の商人貴族、トレンレーツ商会の跡取りだってこんな代物は見たことがない。
そういえばこいつも、特待生なんだった。
長い螺旋階段を降りると、外はもう夕暮れだった。
冬の陽は短い。弾む足取りで寮へと向かう友人のあとを、リュドミラはただ歩く。
何だか——こてんぱんになった気持ちだった。された、とは思わない。あの怖い魔法使いは——リュドミラなんかにまるで興味はない。
彼女が何かに困っていたら、きっと当たり前のように助けてくれるだろう。ただ目の前で転んだ人がいたから、手を貸すような熱のなさで。
変態公子を最初に追い払ったのも、認識阻害の魔道具だった。ちょっとした幻覚を見せるやつで。事後にもみ消すのが大変で。
あの魔道具は——どうだろう。
考えるまでもない気がする。
日没の鐘が鳴った。いつも通り寮の入り口で別れて、リュドミラは王都のタウンハウスに帰る。馬車の待つ正門は目と鼻の先だ。
「気をつけて。また明日ね」
幸せだ、と、全身で輝きを放って、そうそうお目にかかれない美少女は夕闇の通用口に吸い込まれていった。毛先の一本まで美しい、ミルクティー色の長い髪が、燭台の灯を受けてピンクゴールドにも見える。
また明日。明日か。厳冬の月の13日、光の乙女の日。
ハリエットの──誕生日だ。
「何あのモブ……怖すぎん……?」