朝の賛歌
不気味なほど何事もなく、3日間が過ぎた。
肌感覚で、ただの気まぐれとはわかっていながらも、ハリエットは慣例通り「聖告儀」を執り行った。日の出前後の3時間、3日に分けて調える、神の起こした奇蹟の意味を問うための鑽仰だ。
1日目。礼拝堂の蝋燭に火を入れ、香と祈りによる調律を行う。
2日目、ただ深く潜る。祭壇の前に座し、次に気がついたのは始業の鐘が鳴る頃だった。さすがに疲労して、道具作りが捗らなかったものだ。
3日目、億劫そうなお声がかかった。
──星に背き、己の罪を隠す者は何も為せぬ。
──告白し、解き放つ者にのためにこそ憐れみはある。
思ったよりはっきり、暦を欺いていることに対するお叱りが来た。気まぐれを連呼しすぎただろうか。仕事はしているぞ、と弁明をされたような気持ちになる。
聖女が降ろした「聖告」は、儀式の場となった神域を中心に、辺り一体の聖魔法使いにいっせいに届く。蝋燭の火を消し、場を清めて礼拝堂を出ると、神妙な顔の司祭に迎えられた。目が少し赤い。
「コーネリアス君がした発言をそのまま書くわけにはいきませんからね。異端審問にならぬよう、報告書は工夫しなければ」
冗談めかしてそんなことを言ったけれど──覚悟していたとはいえ──ルデリックの信仰も少なからず打擲を受けているはずだ。苦しい時にも他者を思いやれる優しい人にも、安らぎがあることを願う。
賑やかな市を通り抜けて帰る。
祝祭月のリュベージュは、冬の盛りにまさに花の賑わいを見せていた。陽が差して間もない大通りに、燻製肉、蜜菓子、蝋燭細工の小さな屋台が並び始める。露天の庇から、色とりどりの布が霜を散らしながらはためく。
軒先の小僧が、水桶に浮かぶ薄氷を踏みつけて割った。シュル、シュル、と、氷片を掃き寄せる粗い音が響く。どこからともなく、祝祭のパンを焼く香りが漂う。朝の祈祷を済ませた参拝客が、三々五々帰路を辿っている。
まだ長い影を足元に落としながら、ハリエットはその中を歩いて行った。肌を刺すような冷気。家々の煙突から白い煙が立ちのぼり、騒がしいのにどこか寂しい。
ギルドの長い石壁を越え、路地裏に差しかかると、酸味のきいた黒パンの匂いが、微かに湿った炭の香りに乗って漂ってきた。
たまらない気持ちになる。
「……歩いて帰ってきたんだ」
扉を押し開けると、暖炉の脇でパンを炙っていた少年が驚いたように顔を上げた。竈にかかった煮込み鍋から、根菜の甘みを含んだ蒸気がしゅんしゅんと上がる。
小さなテーブルの上に、飾ったチーズと薬湯の器が並び、うっすらと湯気を湛えている。
「くっ」
──完璧すぎ。
変な声が出た。軽く胸を押さえて衝撃に耐える。これはもう家族なのでは? 家族の食卓なのでは? なんで私たちまだ結婚してないの? いや、まあ、彼にその気がないからなんですけど!
自分で言ってだいぶ凹む。
「ど、どうした?」
「なんでもない! にぎやかだったから、街を見ながら帰ってきたの」
挙動不審な少女を見て、コーネリアスは慌ててその顔を覗き込んだ。チーズの傍に炙ったパンを置くと、空いた手で自然と厚手の外套を受け取った。母子ふたりで暮らしていた頃、自然とやっていたのだろうことが慣れた手つきで分かる。──人の気も知らないで!
「おいしそうね。寒いから沁みるわ……」
「ほとんど残りだけど」
「そんなことは」
「気にしません?」
くつくつと低く笑いながら、言葉の先を奪われる。この2、3日で間違えるように血色が良くなった顔を、思わずじっと見つめてしまった。この人、無防備すぎる。
なんにも分かってないのだと思う。私のことが好きじゃないの? これで?
クラウスの兄妹が適当に丸め込んでくれて、なし崩しにこの家で滞在期間中を過ごすことになってから、ずっと距離が近くなった。一日のかなりの時間を2人で過ごしているけれど、何の疑問も持っていないように見える。
ハリエットがその気になれば、言いくるめてこのまま領地にさらって帰ることだってできそうだ。横暴な高位貴族と同じ穴の狢になりたくないから、かろうじて踏みとどまっているだけで。
「? 冷めるから。早く食べよう。今日もやることいっぱいあるし」
「そうね」
頷いて、少女は満面の笑みで食卓についた。
リュベージュでの──ヘーゼ領以外での祝祭期が終われば、ハリエットは領地に戻って、天体現象どおりの降誕祭を過ごすのだ。そのままさらってしまうかどうかは一旦置いておくとして、連れて帰るという選択肢は検討の余地があると思う。
たった3日、回復の魔道具で眠るようにしただけで、こんなに元気になるのだ。あの家から引き離しておくに越したことはない。そうしたらもっと、この人は自分の心で考えることができるようになる。結果やっぱりしっかりふられることになるかもしれないけれど、あんな悲しい答をもらうよりずっといい。
──あとでお父様に、調査の進捗を聞かなきゃ。
暖炉で炙られたパンをちぎって、ひとかけ口に入れる。うん、とってもおいしい。
眠たそうな顔と目が合った。今日もあなたに、素敵なことがあるといい。




