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うしろに聴こえる




 レモンバームの爽やかな香りがたなびく。

 執務室の脇机から見える窓に、微かに塩の混じった木枯らしが吹きつけた。窓の外で夜に向かいつつある街の灯りを、暖かい薬湯のカップを手にしたベルトランは静かに眺める。

 ジジッ、と、燭台に飛び込む羽虫のような音を立てて、置き時計の結晶がⅣを示した。


「……今日も良い一日でしたな」

『まったりしてんじゃね──よ!』


 バァン! と手にした紐布を床に叩きつけて、中空に浮かんだウィレミナの光像が叫んだ。若い人は元気で結構ですな。

 書類盤の上に聖ルスナラの光紋が、水面のように揺らめいている。その上に浮かび上がるのは、すぐ裏手の船着場の景色だ。松明の火影に揺れる舟舞台のシルエットが、壁を埋め尽くす書棚に映る。


『爺やだけずるい! みんな寒空の下で頑張ってるのに!』

『本当にずるい……おれ力仕事とか役に立たないんだから、そっちでもよかったはずなのに……』

『おめーは調整するモンがアホほどあんだろ。投影機、増幅台、一番忙しいわ』

『コーネリアスは正直、今3人くらい欲しいよね』


 音声と光像の同時通信魔法など、まあ出鱈目な技術である。「塔」の重鎮たちは魔法使いの威信にかけて研究の限りを尽くしたようだが、確立できたのは一方的な閲覧・投影のみで、双方向通信の成功には至っていないようだ。

 まさに秘儀である。時の魔法を教会が独占していた古来より今に至るまで、その技術は詳らかにされていない。


『ベルトラン殿』


 一際鈍い振動とともに、またひとつ別の光像が現れた。蝋燭の下、礼拝堂と思しき窓を背景に、若き司祭が謹厳に目礼する。

 ──三点中継とはまた。

 興味津々という顔で魔導ランプに火を込めている少女に目をやる。この通信を制御しながら、小道具の製作に勤しんでいるのだからまあ、聖乙女の祝福自体がすでに出鱈目ということだ。


「ご無沙汰しております。当家の者がいつもご迷惑を」

『はは。否定はしません。この度は格別の機会をいただきましたが』


 率直な司祭の言葉にじろりと当主代理を睨めつけたものの、当のマテウスはすでにくしゃくしゃになった工程表を片手に、『これは間に合う、これは間に合う……』と己に言い聞かせながらそこいらをうろうろしていた。坊ちゃん、それはかえって邪魔なのでは。


「こちらこそ、こたびの祭りに教会から格別のご厚情を賜ったと伺っております。街の者も喜びましょう」

『喜んでもらえるといいが。……そのような教会であり続けるために、私が差配したことです。礼には及びません』


 なんと常識的で気持ちのいい会話だろう。打てば響くとはこのこと。うちの若いのもみんなこうだったらいいのに。今度は副長代理を睨めあげてみるも、銀狐の尻尾見たいな髪が、光像の端に時折見切れるくらいのものだった。もはやこちらの話を聞いてもいない。お嬢様、完全に丸投げですな。


「ご厚情ついでに、尊き方についてちと面倒が起きましてな。教会に先触れを出させていただきましたが、祭りの間も何かとご助力願えれば幸いです」

『まったく、聖国の明星にも困ったものです。明日より我々は神意を問うため、3日間の鑽仰に入ります。その間は教会が盾になることができますが、問題はその後です』

「それで認可書なのですな」

『ええ。今年の仮装巡行(オーメンジュ)は、丸ごと教会の祭事ということにします。これを機にそうしてしまってもいいかもしれない。どうせ我々教区の者は、祭の賑わいを指をくわえて見ているだけだったのですから』

「後ろ盾は偉大ですからな。ギルド連盟から賓客の羽根飾りを用意しましょう。どんな区画も出入り自由です。我が物顔で漫遊なさるのがよろしいかと」


 宗教者の台詞とも思えぬ軽口に、真面目くさって答えてみせる。ただの紙ぺら一枚より、いつどこに教会の目があるか知れない状況の方が、より効果的な抑止力になる。


『羽根飾りはいいけど、ストーカーが入手して藪蛇になったりしない?』


 黙々と舞台装置を調整していたコーネリアスが、ぼそりと嫌そうに指摘した。何が楽しいのかマテウスがニヤニヤしながら、『かわいそうに、すっかり性格が悪くなって』と涙を拭う真似をしている。その小僧の性格が悪いのは昔からだとベルトランは思う。


「なるほど、それも道理だな。では、祝別の柊にいたしましょう。あれなら神域にあるものしか受けつけません」

『我々も祝福を手伝おう。手分けしてやった方が早い』


 ルデリックが頷くか頷かないかのうちに、天幕の先からワッと歓声が聞こえた。人の輪の中心で、できたわ──とハリエットが上気した声を上げる。

 舟舞台に渡された帆いっぱいに、美しい星空が投影されていた。人ふたり分くらいの小さな光像を映し出す投影器のはずが、なんらかの手段で大幅な増幅を可能にしたらしい。

 年甲斐もなく言うなれば、夢のような光景だった。こんなに鮮やかな発色が出るものなのか。紺碧の空は泉の奥のように澄んでいて、その中を瞬く星屑が、時折長く緒を引いて流れていく。

 どこからともなく、歌が聴こえだした。あっという間に手拍子が混ざり、大きなうねりになる。

 やはり、出鱈目なものですな。聖なる力というのは。

 胸の内はおくびにも出さず、ベルトランはふたたび薬湯をすすった。






準備パートひとまず

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