灰色の雲が近づいている
「とりあえず、私は行かなければな」
祭壇のある聖堂に集まり始めた人々を見下ろして、ルデリックは表情を引き締めた。季節外れの雷に、市井の者がまず恐れるのは神の怒りだろう。司祭として彼らを宥め、落ち着かせなければならない。
結界を完全に解除し、印を解いて立ち上がった少女に改めて問う。
「ハリエット嬢。確認ですが、先ほどの雷に、民へのお叱りの意味はないのですね?」
「はい。それは間違いありません。そうですね、言語化が難しいのですが……。やはり、神の分身かのようにふるまう中央への戒めのような色が強いように感じました。正確なことは、神意の聴聞を行わなければ分かりませんが」
「聖告儀ですね。これは名誉なことだ。準備させましょう」
力強く頷いたルデリックは、礼拝堂の重たげな扉に手をかけた。それさえ分かれば、集まってきた街の者たちを日常に帰してやることは可能だ。神意を問うための儀式は、1日につき数時間ごと、3日ほどに分けて行われる。詳しいことはその支度の間にでも話せばいい。
微かな軋みとともに、扉が開いて──。
「あら」
薄暗い廊下から、小さな光の球が迷い込んできた。黄色とも緑ともつかぬ、ある種薬品的な色合いで明滅する、小さな光虫だ。
「“螢”だ。ギルドかな』
コーネリアスの差し出した手に、淡く光る螢は音もなく着地した。そのまま簡素な封書になる。
「何かあったのだろうか?」
「まずはこちらを読んでみます。でも、本当に火急の用があれば誰かが転移魔法で飛んでくるでしょうから。司祭様はどうか、聖堂へ」
部屋の外に足を踏み出しかけて、中途半端な姿勢で止まっていた司祭をハリエットは促した。もう一度頷いて、青年は早足に渡り廊下へ出ていく。
「ベル爺からだ」
先ほど司祭が座り込んでいた赤い布張りの席に、二人して腰を下ろした。封書を開け、家令の几帳面な筆記に目を走らせると、ストーカーが来襲した行でぴたりと動きが止まる。
「げ」
「アレ……やっぱり来たのね……」
何かご大層な贈り物だか呪物だかを携えていたようだが、知りたくないので薄目で読み飛ばした。何を贈られても、ハリエットに受け取る気はないのだし。
「最悪だな。ここに向かってるんだ」
心底気味悪そうな顔で、コーネリアスがため息をついた。あまりに嫌そうなので、ハリエットの方が少し冷静になってくる。大方守護結界を見られたのだろうが、神意を悟っているのに何もしない選択肢などなかったから、これに関して後悔はない。
「先触れ?」
淡々とした家令の筆致は、意外な展開を見せていた。あれがクラウスの邸宅を先触れもなく訪れたため、教会には気を回して通達しておいた、というような内容だ。パッヘルベルクの至宝、流星公が神の守護を目撃し、謝意を伝えにそちらへ向かった──と、聖女教会にも既に伝わっているらしい。
「これは」
「助かるわ。教会が応接してくれれば、私は出なくて済むもの。詳しいことは何もわかっていないから、主任司祭様も余計なことは喋らせたがらないでしょう」
「さすがベル爺、性格が悪い」
感心したようにコーネリアスが呟くので、声を上げて笑ってしまった。もしアレがギルドに現れても、聖女として筋を通しに行くのだから、「聖女のつとめ」と言えばいい──と、少年が淡々と説いた時、あの老家令がぼやいたことと全く同じだ。
「あっ、聖女様と──お付きの人! ルデリック司祭からお話は聞いてますんで! ここにずっといるのもアレでしょう。応接間にいらしてください」
開けっ放しの扉から、従僕が飛び込んできた。この家の者だろう。手には号外らしき薄鼠色の粗紙を持っている。さっきの雷がさっそく記事になったのだろうか。
「従僕の方、少しいいかしら」
「あっ、ハイッ?」|
「こちらは私の友人なの。『お付きの人』ではないから認識を改めてくださる?」
「ああッ? あの、すいません! 失礼しました!」
「失礼を詫びるならば彼にして。──お持ちのそれは号外?」
「ハイッ! あ、あの、広場に行ったら、情報ギルドの帆籠がバラ撒いてました! アッご覧になりますか?」
わたわたしながら少年が渡してくれた目の粗い紙には、安いインクで聖女教会と光紋の絵が描かれている。あの短時間でよく、と感心しながら見出しを読み進めて──聖女と魔法使いはどちらともなく顔を見合わせ、それから声を上げて笑いだした。
「公子様、大変ね。これは」
「今ごろ通りでもみくちゃだろうな」
流星公のお成り──と、号外まで打たれてしまっては、あの目立つ人間が誰にも見つからずに市場を抜けることは難しいだろう。ああ見えて優れた施政者ではあるらしい公爵令息が、自分を慕い歓迎してくれる者たちを無下にはできまい。
「あー、おかしい。いい気味だわ!」
はっきり言い放って、ハリエットは笑いすぎてにじんだ涙を指で拭った。
「応接間で、司祭様を待たせていただきましょう。町の人が落ち着き次第、私も出ることになると思うわ」
リュベージュの聖女教会は──前述の通り──この辺り一帯を束ねる豪商貴族グルテウス家の邸宅と、専用通路で繋がっている。そこから邸の応接間に移っても、教会の建物とは、荷車ひとつ通せないほど隣接している。
はめ殺しの窓の向こう、祭壇の前に立ち、信徒たちに語りかける友人の姿を、コーネリアスはぼんやりと眺めていた。
やたら上等な椅子がむしろ居心地悪い。あの長椅子は本当によくできていたのだと思う。
従僕が入ってきて、号外を最新版に交換してくれた。あたかもパレードか何かのように、黒山の人だかりに囲まれた公爵令息の精巧な挿絵に差し替わっている。
お付きの人、は、ちょっと面白かった。
そう見えるだろうなあと思う。
この応接間に向かうまでの短い間で、司祭様には聞かせられないんだけどね──と、内緒話でもするように彼女は言った。
──聖女はみな知っていることだけど。
──神様はときどき、ああいうことを気まぐれになさるのよ。
子供のいたずらに呆れるような、慈しみと諦めのこもった眼差しだった。
──気まぐれ?
びっくりした。あんな巨大な雷を何ほどのこともなく落とすことのできる存在に、そんなことを言っていいものだろうか。鸚鵡返しに聞き返すと、ハリエットは両手を広げて、あっけらかんと笑った。
──ええそうよ。気まぐれ。
──この瞬間も、神は聞いていらっしゃるけど、否定なさらないでしょう?
何だか──。
腑に落ちない気持ちになった。誤りを認めることをあんなにも恐れる司祭の姿を、目の当たりにした時にも感じたものだ。彼らは──聖典によれば──それこそ1000年も2000年も、そんな風にして生きてきたから、当たり前になっているのだろう。そういう、古い組織の生理現象のような不可解な習わしは、それこそ「塔」にだってないことはないけれど。
──なんで。
──司祭様には言えないの?
魔力を持った聖職者である以上、多かれ少なかれ、彼らも神というものの声を聞くことがあるはずだ。司祭や修道師の語る「神様」の姿は、時に人の手に余る過酷な試練を与えこそすれ、とてもそんな──気まぐれを起こすような血の通った姿をしていない。摂理そのもののような超越者だ。
コーネリアスの問いに、ハリエットは数瞬、噛み締めるような顔をして、
──そうね。
──いつか話せるといいわね。
と、言った。
わあ、と、主祭壇の前で歓声が上がる。
テーブルの上に放り出された号外を見た。似顔絵だけでも充分なくらいうんざりさせられる。
こんなに人間を嫌うということが、自分にあるとは思わなかった。
いいぞいいぞ。赤い髪の魔法使いに、思い切り背中を叩かれたことを思い出す。
──お前はもっと、ワケの分からん気持ちをいっぱい味わった方がいい。
それは──。
怖いな。ものすごく怖い。……




